青山里戦闘

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青山里戦闘
間島出兵
1920年(大正9年)10月21日-26日
場所 中華民国吉林省間島
結果 日本軍の勝利。殲滅には失敗。独立軍の主力はロシア領及び満州奥地へ移動。
衝突した勢力
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍 北路軍政署
大韓独立軍
馬賊
被害者数
戦死 11, 負傷 24 (後述) 戦死 130, 死傷 90以上, 逃亡 200

青山里戦闘(せいざんり(チョンサンリ)せんとう)は、間島出兵中の1920年10月21日から26日にかけ、満州間島和竜県(現・中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州和竜市)の青山里付近で、日本軍朝鮮人の独立運動武装組織及び中国人の馬賊との間で行われた戦闘。

経過[編集]

間島出兵延吉県和竜県方面を担当し、武装組織を敦化県及び安図県方面に脱出させることのないよう注意するよう師団長の訓令を受けた東正彦少将は、10月15日に竜井村に到着し東支隊を編成した。同月17日に機関銃を有する500~600人の武装組織が頭道溝の西南約10里の青山里付近の谷に留まるとの情報を得て、1. 山田隊(主力:歩兵第73連隊)は速やかに賊の西方に進出し退路を断ち主力をもって討伐する。2. 騎兵連隊は後車廠溝、前車廠溝、昇平嶺から迂回し老嶺方面の退路の遮断に努める。3. 歩兵第74連隊の2中隊等は頭道溝にて待機する。と、部隊編成と作戦行動支持を命じた。山田隊は二縦隊で青山里へと進軍し、同月18日に右縦隊の中村大隊は頭道溝を、山田隊は竜井村をそれぞれ出発した。右縦隊は蜂蜜溝を経て青山里へ向い、同月19日に蜂蜜溝の西南約3000メートルの谷で40人の中国人馬賊と衝突し、2人を負傷させ撃退した。山田隊は頭遣溝南方の八家子を経て、同月20日に三道溝に到着した[1]

山田隊は武装組織が同月20日未明に奥地へ逃れたことを知り、これを捜索しつつ同地で宿営した。同月21日には右縦隊が合流し、山田隊は密林を捜索して付近の部落を掃討し、安川少佐の指揮する選抜歩兵1中隊が追撃隊として老嶺方面に向かうと、宿営地から1里のところに600人ほどの武装組織の宿営地跡を発見した。追撃隊は警戒しつつ600~700メートル程進んだところで武装組織の銃撃を受け、直ちに応戦して30分程の戦闘を行ったところで武装組織は逐次退却をはじめ、山田隊の主力も加えて老嶺方面に追撃したが、武装集団は密林に火を放ち、その隙に老嶺の東南の谷や密林に一部を残し安図県方面に退却してしまったため、ひとまず再編成のために主力の位置に撤退した。この戦いにより、日本軍の戦死者は兵卒4人、負傷者は下士官1人、兵卒2人、武装組織の遺棄死体は16人であった[2]

争点[編集]

日本軍の損害[編集]

韓国系の文献は、青山里戦闘を「青山里大捷」と呼び、独立軍の大勝利であったとしている。「青山里大捷」は韓国が言うところの「韓民族の独立運動」の中で重要な部分を占めており、大韓民国の「建国神話」の中核をなす。韓国とは対照的に、北朝鮮版の「独立運動史」は青山里戦闘に言及していない。金日成パルチザンのみが唯一の武装抗日団体であったという北朝鮮の公式見解に反し、不都合だからである[要出典]

日本軍の損害について、朴殷植の『朝鮮独立運動之血史』(1920)は「加納連隊長以下900余〜1,600余人」、韓国中央選挙管理委員会編刊『大韓民国政党史』(1964)は「千余人」、韓国国防部戦史編纂委員会『韓国戦争史』(1967)は「死傷3,300人」、趙芝薫『韓国民族運動史』(1975)は「加納連隊長以下3,300人」としている。年を経るごとに日本軍の損害は誇張されていっている。同時に、日本軍の兵力、独立軍の兵力も膨れ上がり、戦闘の主役が金佐鎮から李範奭に移っている。これは、李範奭が韓国の初代国務総理兼国防部長官を務めたことと無関係ではないと見られる[要出典][誰によって?]こうした韓国側の主張は、日本軍の構成などに明白な誤りを含むだけでなく、記録の統一性や調査の正確性の観点から見てあまりにも不自然である[要出典]

日本側の史料によれば[3]、青山里戦闘で受けた日本軍の損害は、戦死11、負傷24のみで将校の死傷は見当たらない。この報告は靖国神社の合祀名簿によって裏付けられている。また、間島出兵後の第19師団の備蓄兵器調査においても、日本軍の戦闘損耗はきわめて軽微だったことが確認されている。

韓国側の文献に唯一実名が挙げられているのが「加納連隊長」である。『朝鮮独立運動之血史』は、日本領事の秘密報告書が加納連隊長の戦死を報告していると主張している。しかし、そのような領事報告は確認されていない。「加納連隊長」に該当する人物として考えられるのは、騎兵第27連隊長の加納信暉大佐であるが、加納信暉の名前が戦死者名簿にないだけでなく、間島出兵後の1922年(大正11年)まで連隊長を務めていたことが判明している。これは、青山里での戦果を裏付けるとされた唯一の資料が虚構であったことを意味し、韓国側史料の信憑性に疑問を投げかけている[要出典][誰?]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

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  1. ^ 朝鮮軍司令部編『間島出兵史』[要ページ番号]
  2. ^ 朝鮮軍司令部編『間島出兵史』[要ページ番号]
  3. ^ 陸軍第19師団司令部「間島事件鮮支人死傷者調」大正10年2月25日

参考文献[編集]

  • 佐々木春隆、「韓国独立運動史上の「青山里大戦」考」 『軍事史学』59号 第15巻 第3号、22-34頁、1979年12月
  • 佐々木春隆、『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』、1985年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]