長順
長順(ちょうじゅん、チャンシュウェン、満洲語: ᠴᠠᠩᡧᡠᠸᡝᠨ、転写:cangšuwen[1]、Zhangshun、1839年 ‐ 1904年)は、清の軍人・官僚。字は鶴汀。
満州正白旗人。ダフル・ゴベイル氏(Dahūr Gobeir hala、達呼里郭貝爾氏)。ブトハ出身。藍翎侍衛となり、アロー戦争中に咸豊帝が熱河に逃亡すると、それに随行した。馬賊が朝陽を陥落させると、大学士の文祥(ウェンシャン)に従って討伐にあたった。
ついで勝保に従って捻軍との戦いにあたり、直隷省・山東省・安徽省・河南省を転戦し、咸豊11年(1862年)に潁州の包囲を解いた功で二等侍衛に昇進した。
その後、ドロンガ(多隆阿)に従って回民蜂起軍との戦いにあたり、同治3年(1864年)には寧夏を攻略して副都統に昇進した。同治6年(1867年)から蘭州に軍を移し、回民軍をしばしば打ち破った。同治8年(1869年)に鑲紅旗漢軍副都統となり、同治11年(1872年)にウリヤスタイ将軍となった。光緒2年(1876年)からバルクル・クムルで大臣を務めた。その後、正白旗漢軍都統や内大臣を歴任し、光緒14年(1888年)に吉林将軍に就任した。
光緒20年(1894年)に日清戦争が始まると、黒竜江将軍のイクタンガ(依克唐阿)とともに援軍に赴き、日本軍に占領された海城を包囲したが、奪回に失敗した。戦争終結後、病を理由に故郷に帰ったが、光緒25年(1899年)に再び吉林将軍に起用された。翌年、義和団の乱に際して、ロシアが東三省に進攻すると、奉天・黒竜江は主戦論を唱えたが、長順は和平論を唱えたため、吉林のみ戦火を免れることができた。光緒30年(1904年)に日露戦争が発生すると、中立の態度を維持した。
死後、太子少保と忠靖の諡号が贈られた。
注釈
[編集]出典
[編集]- 『清史稿』巻461・列伝248
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