長森原の戦い

長森原の戦い(ながもりはらのたたかい)は、永正7年6月20日(1510年7月25日)に、越後国長森原(現・新潟県南魚沼市)で起きた戦い。
経緯
[編集]越中の神保慶宗は足利義材の下にて、反細川政権包囲網を形成する。だが、それを危惧した細川政元は、親しい関係にあった加賀一向一揆に越中攻撃を依頼。一向一揆側の事情も相まり、永正三年に越中を急襲し、神保方は越後や飛騨に逃亡した(永正三年一向一揆)。神保慶宗は上杉房能に救援を求められ、快諾。そのため、房能の命により、長尾能景が慶宗救援のために向かうことになった。
7月、能景は礪波郡にまで攻め上り、朝倉氏との協力による加賀の制圧も可能かと思われたが、一揆側と通じた慶宗の戦線離脱によって長尾勢は孤立し、壊滅。能景は討ち取られ、長尾為景が守護代を継ぐ(般若野の戦い)[1]。為景はこれを裏切りと見た。
また、房能が長尾にほぼ委任していた統治に対して支配体制を強めようとし、直接支配に乗り出した。さらにはその際に土地の面積や石高を正確に把握し税収入の徹底を試み、国人領主層の特権である守護不入の権益を廃止したため鬱憤が溜まっていた。[2]
それらの要因が積み重なり為景は房能に反発し続け最終的には上杉定実を擁立し、先手を打って軍事行動を開始する。房能側はそれに対して抵抗できず、房能は天水越で自刃する。
上杉顕定はこれを討たんとし、一時は長尾方が佐渡(越中国とも)へ敗走するも翌年には寺泊に上陸。そのまま上杉軍を打ち破ることに成功する。[3]
経過
[編集]そうして、上杉定実を擁した長尾為景軍が越後へ復帰した一方、関東管領上杉顕定は越後国人の人心を得られず、兵800を率い越後からの撤退を開始した。
長尾為景らは兵500を持ってこれを追撃、迎え撃った顕定方は防衛に成功。その後、長尾方の援軍の高梨政盛が兵700を率い、顕定方の側面を急襲し、上杉顕定を討ち取り、勝利した。
顕定方は長尾定明ら諸将も失い、大敗した。その後、高梨方は長森村に有った石動神社へ戦勝報告をし、祝杯を挙げたという。
地理
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長森原の戦いは宇田沢川左岸の扇状地において起きた戦いであり、下原村、新堀村、上原村、宇田沢川本流を挟んだ領域において行われた。当時の三国街道を挟むように宇田沢川側に高梨方、三国川側に顕定方の陣営が対峙し、長尾為景陣営は魚野川側に陣取っていた。現在の古戦場跡は田園地帯となっており、寺浦百塚[4]と呼ばれる塚が点在し残存している。
宇田沢川直近には管領塚と呼ばれるひときわ大きな塚が残されており、管領塚史跡公園として整備されている。
戦後
[編集]これによって、長尾為景が上杉定実を名目上の越後守護・越後上杉氏当主に擁立して越後を実質支配する体制が成立した。
越後長尾氏と山内上杉家の敵対関係は以後40年近くの間続くことになるが、山内上杉氏は新興の北条氏によって次第に圧倒されるようになり、天文17年(1548年)頃より関東管領上杉憲政(系譜上は顕定の孫)と越後守護代長尾晴景(為景の長男)の間で関係修復が図られるようになる[5]。間もなく、晴景は家中の内紛から弟の長尾景虎に家督を譲っているが、上杉憲政が北条氏康によって本国の上野を追われると、景虎はこれを受け入れた。そして、長森原の戦いから半世紀を経た永禄4年(1561年)に上杉憲政は長尾景虎に山内上杉家の名跡と関東管領職を譲ることになり、越後長尾家の系統が山内上杉家を継ぐことになった。
脚注
[編集]- ↑ “安田城跡ミニ資料展”. 2026年4月23日閲覧。
- ↑ “戦国猛人 天水越の合戦”. 2026年4月23日閲覧。
- ↑ “戦国猛人 長森原の戦い”. 2026年4月23日閲覧。
- ↑ あるいは下原百塚とも。
- ↑ 森田真一「北条氏と山内・扇谷両上杉氏」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6、236–237頁。