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野尻氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野尻氏(のじりし)は、日本氏族の一つ。野尻の地名は日本各地にあり、それらに由来するものが多い[1]

河内野尻氏

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河内国紀伊国越中国大和国宇智郡を支配した管領家畠山氏の内衆[2]。河内国交野郡の有力国人で、隣接する山城国綴喜郡野尻郷(現在の京都府八幡市[3])の出身とみられる[4]

応永16年(1409年)以降の書状[注釈 1]野尻七郎右衛門尉の名前が現れる[5]。七郎右衛門尉は大和国宇智郡の郡代を務めた[6]

その後、畠山氏が義就流と政長流に分裂すると、野尻氏は政長流の内衆として活動する[7]文明15年(1483年)9月に畠山政長方の大将・野尻某が河内国牧郷にある犬田城大阪府枚方市印田町)で自刃し(犬田城の戦い[5]永正元年(1504年)12月、和泉国日根野での半済の賦課を野尻氏が実行[5]、永正8年(1511年)7月には細川澄元により野尻某が戦死した[5]

政長の河内進出の際、前線の犬田城に大将として入れられたことから、野尻氏は元々北河内に地盤を持っていたものと推測される[8]

天文14年(1545年)5月、挙兵した細川氏綱の鎮圧のために派遣された細川晴元の軍勢に野尻氏が加わっている[9]。河内の軍勢500を率いており、野尻氏は北河内最大の戦国領主であったといえる[10]

天文21年(1552年)、畠山氏内部の覇権争いの結果、安見宗房により萱振賢継とそれに同心する者たちが粛清される[11]。その際、萱振方に付いていた野尻治部は半死半生で逃げ延びた[11]。その後、牢人として牧郷の招堤寺内に入り、その防衛に携わったとされる[5]

野尻治部失脚後の野尻氏は安見宗房の子が継承し、野尻満五郎と名乗った[12]。これにより、野尻氏が持っていた北河内の国人への軍事動員権を宗房が掌握することとなった[13]

永禄12年(1569年)、借銭の返済を度々求めたものの応じられなかったとして、野尻実堯の商人・今井宗久により織田信長に訴えられている[14]。この結果、実堯は牧郷を差し押さえられた[14]

元亀4年(1573年)正月には、野尻氏が河内の下郡代を務めており[15]、北河内の武士を編成し北方での合戦を中心に活動していた[16]

脚注

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注釈

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  1. ^ 応永16年3月20日付畠山道端寄進状を受けて出された、野尻七郎右衛門尉宛て遊佐国盛書状(『大日本古文書 観心寺文書』185号)。

出典

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  1. ^ 太田亮姓氏家系大辞典 第3巻』姓氏家系大辞典刊行会、1936年、4601–4603頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1131019/266 
  2. ^ 弓倉 2006, p. 133.
  3. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年、1125頁。 
  4. ^ 弓倉 2006, p. 248.
  5. ^ a b c d e 小谷 2003, p. 262.
  6. ^ 今谷明「室町時代の河内守護」『守護領国支配機構の研究』法政大学出版局、1986年、122頁。 
  7. ^ 弓倉 2006, pp. 27, 141.
  8. ^ 小谷 2003, p. 283.
  9. ^ 弓倉 2006, p. 242.
  10. ^ 小谷 2003, p. 263.
  11. ^ a b 小谷 2003, pp. 263–264; 小谷 2015, p. 321.
  12. ^ 小谷 2015, p. 321; 弓倉 2006, p. 248.
  13. ^ 小谷 2003, p. 264.
  14. ^ a b 馬部 2019, p. 532; 弓倉 2006, pp. 344–345.
  15. ^ 小谷 2003, pp. 120, 249; 弓倉 2006, p. 360.
  16. ^ 小谷 2003, pp. 120, 249.

参考文献

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  • 小谷利明『畿内近国守護と地域社会』清文堂出版、2003年。ISBN 4-7924-0534-3 
  • 小谷利明 著「文献史料からみた私部城」、交野市教育委員会 編『私部城跡発掘調査報告』交野市教育委員会、2015年。doi:10.24484/sitereports.17362 
  • 馬部隆弘『由緒・偽文書と地域社会 北河内を中心に』勉誠出版、2019年。ISBN 978-4-585-22231-6 
  • 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。ISBN 4-7924-0616-1