酒井雄三郎
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酒井 雄三郎(さかい ゆうさぶろう、1860年10月22日(万延元年9月9日)‐ 1900年(明治33年)12月9日)は、日本の社会思想家、フランス学者である[1][2]。
経歴・人物
[編集]肥前(現在の佐賀県)小城藩士であった酒井忠六の四男として生まれる[2][3]。1879年(明治12年)に上京し中江兆民が開いた仏学塾に入所し[2]、フランス学を学んだ。1889年(明治22年)に農商務省からの派遣により渡仏し[2]、パリ万国博覧会に出席した[1][2]。出席中はパリ大学に留学し[4]、当時ヨーロッパでの社会問題について学び[5]、社会党運動やメーデー等多くの社会運動を執筆し『国民之友』に寄稿する[1][2]。翌1891年(明治24年)にはベルギーのブリュッセルに滞在し[2]、ブリュッセル大学に留学する[4]。また同年、同地で開催されていた第2回第二インターナショナルに日本人として初の参加者となり[2][3]、その見聞記を『国民新聞』に寄稿するといった社会活動にも携わった[4]。
1892年(明治25年)に一旦帰国し[2][4]、その後はジャーナリストとしての活動も始め上野岩太郎や小島龍太郎[5]、佐藤勇作らと共に「社会問題研究会」の設立に携わる[5]。1900年(明治33年)には農商務省からの委託により[5]、再度渡仏し朝日新聞の特別派遣記者として活動した[3][5]。同年にはパリ万国博覧会に出席したが[2]、閉幕から約1ヵ月後の12月9日にパリにて急逝した[1][2]。死因は宿舎からの転落により自殺とみられているが[3][4]、兆民は後にその死については「読書生活だったので、履歴が存在しない」と徳富蘇峰に書き送った[2]。