西川渉
西川 渉(にしかわ わたる、1936年6月8日 - 2020年2月16日)は、日本のドクターヘリ事業の普及発展に寄与した航空ジャーナリスト[1]。東京都出身[2]。
生涯
[編集]宮崎県に生まれ[3]、中学2年生の時に東京都に移住した[4]。1960年に東京大学理学部を総代で卒業した[5][6]。
1960年に西武百貨店に入社、その後、同じグループであった朝日ヘリコプター(現在の朝日航洋)に転籍、1980年に代表取締役専務、1989年に地域航空総合研究所代表取締役所長に就任した[1]。朝日航洋では、ベル 47、KH-4、シコルスキー S-58C、S-62A、アルウェットII、AS350B、AS355、Bo105、BK117、ベル 206B、206L、204B、212、412、214B、214ST、MD900、ピューマ、スーパーピューマ、ミル Mi-8、カモフ Ka-26など、数多くの機体に携わった[2]。
日本航空新聞社編集顧問に就任し、同社主催の国際ヘリコプター協会(HAI)米国ツアーに通算30回参加するなど、日本のヘリコプター業界への情報提供に貢献した[1]。
1989年にAHS(米国ヘリコプタ学会)の日本支部であるJHS(日本ヘリコプタ協会)の創立に主要メンバーとして関わった。1998年度から1999年度まで同協会の第5代会長を務め、その後、常任理事および顧問を歴任した[2]。
1998年度にヘリコプターによる救急システムの推進に関する検討委員会委員(総務省消防庁)、1999年度にドクターヘリ調査検討委員会委員(内閣官房)に就任した。また、救急ヘリ病院ネットワーク(認定NPO法人、略称HEM-Net)理事、日本航空医療学会理事、(財)日本航空協会評議員、(財)日本救急医療財団広域搬送委員会委員、全日本航空事業連合会ドクターヘリ分科会顧問、日本ヘリコプター事業促進協議会理事などにも就任した[5]。
1996年11月3日、ウェブサイト「航空の現代」を開設、2019年1月31日までの22年間にわたり、2,300篇を超える「日本と世界の航空界を展望する報告と論考」や「多少の社会時評」を掲載し続けた[7]。また、「ドクター・ヘリ―“飛ぶ救命救急室”」などの書籍を執筆するとともに、「航空情報」などの雑誌に寄稿した[8]。
2020年2月16日、がんのため死去。享年83[9]。
著書
[編集]- 『なぜヘリコプターを使わないのか―危機管理システムの核心』中央書院 、1996年2月 ISBN 978-4887320192
- 『マルチメディア航空機図鑑』(宮田豊昭との共著)アスキー <CD-ROM & book―マルチメディア図鑑シリーズ>、1996年12月25日 ISBN 978-4756114334
- 『ドクター・ヘリ―“飛ぶ救命救急室”』時事通信出版局、2009年2月1日 ISBN 978-4-86320-021-0
受賞
[編集]- 国際ヘリコプター協会1997年地域貢献賞受賞(Helicopter Association International,本部ワシントンDC)[5]
脚注
[編集]- ^ a b c 佐藤隆 (2020年4月15日). “ドクターヘリ発展に寄与した西川渉氏逝去”. 航空ニュース
- ^ a b c “日本ヘリコプタ協会 人物紹介(5)”. 2020年4月29日閲覧。
- ^ 西川恭子 (2018年2月). 西川孚. ed. きょうこ百年. プリントパック. p. 27
- ^ 田舎では英語などのレベルが低すぎるという祖父の意向で、世田谷区の親戚の家に居候として上京した。それ以降、世田谷区に居住した。
- ^ a b c “西川渉 プロフィール”. 2020年4月29日閲覧。
- ^ “徹底調査 東京大学「首席卒業」のその後”. 2020年4月29日閲覧。
- ^ “航空の現代 新生篇”. 2020年4月29日閲覧。 “2020年3月15日現在、本サイトは、西川渉の次男によって維持されている。”
- ^ “日本ヘリコプタ協会 人物紹介(5)”. 2020年4月29日閲覧。 “朝日ヘリコプター操縦士の長尾牧は、「西川さんは文章を書くのが好きで、...ヘリコプタのスポークスマンとしての活躍は素晴らしいものです。また、そのわかりやすい解説は技術屋の論文とは異なり、一般人への多くの理解を得られるものであり、見習うべきものがあると思います」と述べている。”
- ^ “航空の現代 新生篇”. 2020年4月29日閲覧。