蛍丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
肥後国阿蘇大宮司蔵蛍丸太刀図(画像上)
(『集古十種』より)

蛍丸(ほたるまる)は、来国俊作の日本刀大太刀)である。

1931年に国宝に指定されたが、太平洋戦争終戦時の混乱の中で行方不明となった。

概要[編集]

総長4尺5寸(約136.36cm)、刀身が3尺3寸4分5厘(約100.35cm)という大太刀で、江戸時代松平定信により編纂された『集古十種』には、「肥後國阿蘇大宮司惟純螢丸太刀圖」として絵図が収録されている。これによれば「総長四尺五寸 幅一寸三歩[1]」、切先が「幅七歩半[1] 厚二分一厘」で、茎には目釘孔一つ、表[2]に「来国俊」、裏に「永仁五年三月一日」の銘がある。三ツ頭から茎尻に渡って全体に樋(ひ)があり、表のはばき元には護摩箸の刀身彫刻が、裏にははばき元から切先方向に向けて「長六寸八歩[1]」の素剣の刀身彫刻があることが記されている。

伝来[編集]

南北朝時代南朝側の武将、阿蘇惟澄が佩用したと伝えられる。惟澄は、1336年(建武3年)の多々良浜の戦い菊池武敏を助けて足利軍と戦い敗れた[3]。その夜、この激戦で刃こぼれした刀にが群がり刀を直した夢を観て、目が覚めて刀を見てみると本当に刃こぼれが直っていた、との伝説があり、これが「蛍丸」の名の由来となっている。

以後、阿蘇氏に家宝として伝えられ、阿蘇氏が戦国時代末期に島津氏に下って実質的に滅亡し、後に阿蘇神宮の大宮司として再興すると、阿蘇神宮の宝刀として秘蔵された。明治時代になり、阿蘇家が男爵の位を授けられて華族となると、阿蘇家の家宝とされる。1931年昭和6年)12月14日、当時の国宝保存法に基づく旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。指定時の所有者は男爵阿蘇惟孝となっている。

前述のように、太平洋戦争終戦後は所在不明である。

所在不明となった経緯について、一説にはGHQが戦後日本の非軍事化政策の一環として全国から日本刀を没収して廃棄する「刀狩り」を行った際に、蛍丸も接収され処分されたのではないかとされている。ただし、「処分された」との正式な記録もなく、異論として「接収を避けて阿蘇神宮から密かに運びだされ、何処かに隠された」との説もあるが、いずれにしても現在に至っても所在不明のままである[4]。なお、国の重要文化財としての指定は所在不明となった後も継続されている[5]

復元計画[編集]

2015年になり、岐阜県関市周辺の職人により復元し阿蘇神社に奉納することを目的としたクラウドファンディングによる復元計画が始まり[6]、締め切りまで80日以上を残した開始6日間で希望額の約6倍の3000万円以上を集めた[7]。ゲーム「刀剣乱舞」によって蛍丸の存在を知った出資者が多かったとみられている[7]。 蛍丸の復元は岐阜県関市の刀匠「房幸」と、大分県竹田市の刀匠「房興」が共同で行う[8][9]。なお出資金の一部は、2016年4月に起きた平成28年熊本地震に際し、阿蘇神社への見舞金として寄付された[10]

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b c 原記の「歩」は尺貫法の長さの単位と解釈すると6(約181.81cm)のことになるが、その解釈では表記としての意味を成さず、単位としての他の意味である「元の値の100分の1」を示すもの」「面積の単位の下につけて丁度の値であることを示すもの」双方共にこの場合の解釈としては無理があるため、この場合は「分」(1分は約3.03mm)の別記(誤記)と解釈するのが正しいと思われる。
  2. ^ 太刀の「表」とは、刃を下に向けて左腰に佩用した際に体の外側になる面を指す。
  3. ^ 蛍丸国俊『日本刀と無敵魂』武富邦茂 著 (彰文館, 1943)
  4. ^ 文化庁編『国宝・重要文化財総合目録』(第一法規、1980)ほか、戦後刊行の重要文化財目録では「補遺」の部に収録され、「戦後連合国軍により接収され返還されていないもの」に分類されている。
  5. ^ 文化庁「国指定文化財(美術工芸品)の所在確認調査の概要(第1次取りまとめ)について(平成26年7月4日)」中の一覧表を参照。
  6. ^ ITmediaニュース 2015年11月2日
  7. ^ a b ついに3000万円突破! 名刀「蛍丸」復元クラウドファンディングに寄付殺到...「俺が、俺たちが蛍丸の蛍だ!」 - Jタウンネット、2015年11月 6日
  8. ^ FAAVO 蛍丸伝説をもう一度!大太刀復元奉納プロジェクト始動! 2016年3月6日
  9. ^ 竹田市ホームページ 2016年3月6日
  10. ^ 阿蘇神社被災状況と見舞金の送金について - FAAVO美濃國 2016年4月21日

関連項目[編集]