藤田航空機八丈富士墜落事故

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藤田航空 臨時便
DH.114 Heron 2 Cambrian 04.58.jpg
同型機のDH114 ヘロン(画像はカンブリア航空のもの)
出来事の概要
日付 1963年8月17日
概要 エンジン不調による墜落
現場 日本八丈島
乗客数 16
乗員数 3
負傷者数
(死者除く)
0
死者数 19
生存者数 0
機種 デ・ハビランドDH114 ヘロン
運用者 藤田航空
機体記号 JA6155
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藤田航空機八丈富士墜落事故(ふじたこうくうきはちじょうふじついらくじこ)は、1963年8月17日に発生し、19名の犠牲者を出した航空事故である。

事故までの経緯[編集]

東京都羽田空港八丈島の間に定期便を就航させていた藤田航空であったが、1963年8月17日浅草の旅行会一行41名の団体客の輸送を受けることになった。この時、藤田航空には定員15名程度のデ・ハビランド DH.114 ヘロン旅客機及びより大型のフォッカー F27旅客機を運航していたが、折悪くフォッカーF27旅客機は定期点検中であり、藤田航空は、東亜航空に貸し出していた機体記号JA6155機を含む3機のデ・ハビランド DH.114旅客機によって旅客41名を輸送することになった。

一番機JA6155機は操縦乗員2名、客室乗務員1名、旅客16名の計19名を乗せて午後2時24分、八丈島空港を出発した。続いて二番機、三番機も出発したが、後続2機が羽田に到着し予定の午後3時39分を過ぎても一番機が到着せず、3時間分の搭載燃料が枯渇する午後4時半、遭難が確実となり大規模な捜索が始まった。

捜索活動[編集]

ガソリン油膜が付近海域に漂流していたため、一番機は予定されていた航路下の海域で遭難と考え、海上保安庁巡視艇、藤田航空同僚機、全日空のビーチクラフト、航空自衛隊、在日米軍機が捜索したが、一向に発見できなかった。そこで19日になり警視庁は八丈島の山地を捜索したが打ち切った。

翌20日午前8時55分、事故当日二番機機長だったパイロットが、空港から10km離れた八丈富士8合目の雑木林に激突していたJA6155機を発見した。警察官や消防団などが墜落現場にかけつけたが生存者はなく、事故機は尾翼を残し焼け落ちていた。操縦乗員2名と1名は機外、ほかの16名は客室でそれぞれ発見されたが、遺体は焼損が激しかった。

事故原因[編集]

八丈島空港の通常出発方法では南西方向へ離陸し左旋回するはずが、一番機は右旋回したことを二番機の機長が証言した。また事故機の機長は藤田航空の訓練所長兼飛行課長代理を務めるベテランパイロットで、操縦ミスが事故原因とは考えにくかった。

この為、事故機の右旋回は

  • 機長がショートカットして早く羽田に向かおうとした。
  • エンジンが不調を起こし、空港に戻ろうとした。

という原因が考えられたが最終的に事故原因は確定しなかった。

また、空港の至近距離で墜落していたにも関わらず発見できなかったことについて、、事故当日に山で炭焼きをしていた者から「衝撃音があった」という通報情報が寄せられていたが、これが捜索本部に伝わっていなかった点、捜索した航空会社、海上保安庁、航空自衛隊などの連携がなかった点、空港周辺を捜索しなかった点が批判された。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]