日東航空つばめ号墜落事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日東航空 つばめ号
事故機と同型のオッター
出来事の概要
日付 1963年5月1日
概要 濃霧の中、航路を誤ったことで墜落
現場 日本の旗 日本兵庫県三原郡南淡町諭鶴羽山[1]
乗客数 9
乗員数 2
負傷者数 2
死者数 9
生存者数 2
機種 デ・ハビランド・カナダ DHC-3オッター
運用者 日本の旗 日東航空
機体記号 JA3115
出発地 日本の旗 大阪国際空港
目的地 日本の旗 徳島飛行場
テンプレートを表示

日東航空つばめ号墜落事故(にっとうこうくうつばめごうついらくじこ)は、1963年昭和38年)5月1日に発生した航空事故である[1]

事故の概要[編集]

大阪空港から徳島へ向かっていた日東航空日本エアシステムなどを経て現在の日本航空)のDHC-3オッター水陸両用旅客機「つばめ号」(機体記号JA3115)が淡路島兵庫県三原郡南淡町(現在の南あわじ市)にある諭鶴羽山に墜落したのは、1963年5月1日8時56分ごろであった[2]。つばめ号は8時11分に大阪を離陸したが、濃霧の中を飛行していたため航路を誤り、諭鶴羽山中腹の標高約300m地点に墜落し大破炎上した。事故機は1958年4月に新造機で購入した機体で、事故の1か月ほど前にオーバーホールした時点では何も問題はなかったという。

事故の連絡を受け、所管の三原署は警察車両5台を現場に向かわせると共に、近くの南淡中学校に現地対策本部を立ち上げた。

運航乗務員2名は操縦席左右のハッチから脱出して救助されたが、乗客の9名全員が犠牲となった。乗客は着席してシートベルトを締めたままだった事もあり、火の回りが速く逃げ出す余裕がなかったためとされた[3]。遺体は洲本で荼毘に付されたあと各遺族へ引き渡された。日東航空は5月6日に大阪市北区の東本願寺で合同葬儀を行うと発表したが、一部の遺族はこれに反対した。

なお、機長の業務上過失致死傷、航空法違反について大阪高裁で有罪判決が下されたが、最高裁は上告を棄却した。航空事故に関する裁判としては最高裁では最初のものである[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b 第043回国会 運輸委員会 第18号”. 国立国会図書館 (1963年5月7日). 2017年12月23日閲覧。
  2. ^ a b 藤本雅之 (2007). “新居浜の航空路回顧”. 愛媛県総合科学博物館研究報告 12: 17. https://www.i-kahaku.jp/publications/bulletin/pdf/12/kagaku01.pdf. 
  3. ^ 朝日新聞・昭和38年5月1日夕刊記事、2日朝刊記事

関連項目[編集]

外部リンク[編集]