萩原章

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萩原 章(はぎわら あきら、1913年5月14日 - )は、日本の映画監督脚本家である。

来歴・人物[編集]

1913年(大正2年)5月14日大阪市西区(現在の同区堀江あたり)に生まれる。のちの映画監督の萩原遼は3歳上の兄である[1]

当時日本の租借地だった遼東半島先端部の都市大連に日本が建てた旧制大連市立実業学校を卒業後、兄のいる京都に入り、1938年(昭和13年)、日活京都撮影所時代劇部に入社した。撮影助手として宮川一夫に師事したが、兄のいる東宝映画京都撮影所に移籍して助監督に転向する。同年8月に公開された、並木鏡太郎監督の『長曽禰虎徹』のサード助監督にその名が見える。1940年代になり、戦時下になると製作本数も激減し、監督昇進のチャンスもないまま、同社の東京撮影所(現在の東宝スタジオ)へ異動し、助監督をつづけた。衣笠貞之助熊谷久虎島津保次郎今井正らに師事した[1]

第二次世界大戦後は、東宝の反組合派の新東宝に参加、佐伯清中川信夫の助監督をする[1]。その後1950年(昭和25年)、京都の高村正次の「新光映画」で、中川信夫監督の『当り矢金八捕物帖 千里の虎』の脚本を佐伯清と共同で執筆した。翌1951年(昭和26年)のおなじく高村の「宝プロダクション」の設立に参加、ひきつづき中川監督の『又四郎行状記 鬼姫しぐれ』にチーフ助監督としてつき、山手樹一郎の小説を原作として脚本を執筆した。同年4月には、戦前の新興キネマの監督だった吉田信三が「豊田栄」名義で山手の小説を原作として脚本を執筆した『神変美女峠』で、萩原は38歳を目前にして、やっと監督としてデビューした。

早晩宝プロは崩壊し、1954年(昭和29年)から「日米映画」で、『神州天馬侠』全4作を撮るが、その後は文化映画に転向している[1]

フィルモグラフィ[編集]

東宝映画京都撮影所[編集]

1938年 助監督

新光映画[編集]

1950年 脚本

宝プロダクション[編集]

1951年
1952年 監督

新東宝[編集]

1954年 監督

日米映画[編集]

1954年 監督
1955年 監督

関連事項[編集]

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  1. ^ a b c d 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「萩原章」の項(p.310)を参照。同項執筆は岸松雄

外部リンク[編集]