荒木要平

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あらき ようへい

荒木 要平
生誕 1815年????
岡山県浅口市金光町
死没 (1875-02-18) 1875年2月18日(60歳没)
国籍 日本の旗 日本
別名 止信(名)/要平(通称)
職業 剣客/武芸者
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荒木 要平(あらき ようへい、1815年 - 1875年2月18日)は、岡山県浅口郡佐方[1]/占見新田[2](現・浅口市金光町佐方/占見新田)出身の剣客[1]武芸者[2]。名は、「止信」[1]で、「要平」は通称[1]である。

来歴[編集]

早くから剣法に興味を持ち、岡山藩士根岸氏から戸田流剣法を学ぶ[1][3]。成業の後は、拳法を学ぶ[1]。帰郷の際、根岸氏の門人60人と離別の試合を行う[1]。試合は、朝から夕方にわたって行われたが[1]、要平は負けることが無かった[1]

29歳の時、江戸岡田重松より無念流を学ぶ[1][3]。江戸には6年余り留まり[1]、その間の門人は4,000人を数えた[1]

明治8年2月18日死去。享年61。

エピソード[編集]

  • 金玉力の鍛錬を行っており[3]陰嚢は手の皮のように強靭となっていた[3]。その事が噂となっており、安政の時代、鴨方庄屋塚村定次から力自慢を見せて欲しいとの頼みを受け[3]、要平の自宅玄関前で金玉の力試しをすることとなった[3]。庄屋が連れてきた若者6人と綱引きならぬ金玉引きが行われた[3]。若者達は懸命に引張ったが、力及ばず、ズルズル引張り上げられ、要平が勝利した[3]
  • 手で砂を掻き、足でハネ飛ぶ四つ足走法が達者であった[3]備後国鞆の浦沖仲仕たちと駆け足と四つ足走法で競争を行った[3]が、要平がゴールした際、駆け足の沖仲仕たちは、まだ半分しか達していなかった[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『岡山人名辞典』17頁。
  2. ^ a b 『岡山の奇人変人』55頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『岡山の奇人変人』56頁。

参考文献[編集]

  • 吉岡三平 監修『岡山人名辞典』 日本文教出版、1978年。
  • 蓬郷巌 編『岡山の奇人変人』(岡山文庫) 日本文教出版、1977年。

関連項目[編集]