荒川鉱山
概要
[編集]1700年(元禄13年)、川村庄右衛門によって発見された。1738年(元文3年)からは、久保田藩の直山として開発が進められた。1873(明治6)年に岡田平蔵から県に対し荒川鉱山の払い下げが行われ[1]、1876年(明治9年)に明治政府から盛岡の瀬川安五郎が払い下げを受ける。同年に「嗽沢抗」から大鉱脈が発見されるなどして、240年に渡って国内屈指の銅鉱山として栄えた[2]。
1896年(明治29年)から三菱合資会社が鉱業権を所有した後は、製錬所や中央選鉱所、発電所などの設備の近代化が図られた。
これらにより、鉱山町が形成され、荒川村役場や郵便局、駐在所、浴場、病院、劇場「共楽館」、大盛小学校などが建設された[2]。共楽館では、演劇や映画の他、宝塚歌劇団や歌舞伎の公演なども行われていた。明治11年に設立された大盛小学校は[2]、仙北郡内では大曲小学校に次ぐ800人の生徒数を誇っていた。1897年(明治30年)には秋田市よりも約3年早く電灯が導入されるなどして、人口も最盛期には約4000人、周辺を含めると8000人に達するなど[2]、県内有数の近代都市へと変貌した。坑道の全長は53Kmに達した[2]。
1935年(昭和10年)には資源の枯渇などにより、三菱鉱業尾去沢鉱業所荒川支所に縮小され、1940年(昭和15年)に閉山した。鉱員の一部は、近隣にある宮田又鉱山に移った。
閉山後の活用
[編集]1993年(平成5年)、「百目石抗」の一部を使って仙北郡協和町(現・大仙市)がマインロード荒川の名称で観光施設としての整備がなされた[2]。2005年(平成17年)3月22日に協和町が大仙市に合併すると同時に大仙市荒川鉱山跡地観光施設条例[3]が制定され、オートキャンプ場や自然公園などが整備されていった。通期の営業ではなく、12月1日-3月末日は閉鎖されていた。観光坑道内には鉱山資料展示コーナーが設けられ、鉱石や採掘に使用した機具、作業中の職員を模したマネキン人形が展示されていた。公開部分の総延長は813mであり、パネル表示コーナー、サスカイトコーナー、ルーペコーナー、ストロボコーナー、ブラックライトコーナー、タイムトンネルコーナー、レーザー光線コーナーなどといった趣向が凝らされた展示がなされていた。
2007年11月、観光のために整備されていた坑道が内部で崩落して休業[2]。その後、観光用坑道の再開は不可能と判断され、坑道内に展示されていた資料の一部(約390点)は、大仙市協和自然資源等活用型交流促進施設「大盛館」に移され展示されることになった[4]。坑道手前の自然公園は一部がサーキット場の新協和カートランドとして再整備されている。荒川鉱山跡地には、選鉱場跡や精錬所跡、シックナー、煙道、煙突、嗽沢坑口跡が残るが、これらは精錬過程で発生するスラグを転用したカラミ煉瓦が多数使用されて構築され、独特の景観を成している。
松田解子の『おりん口伝』
[編集]松田解子の代表作である『おりん口伝』は1966年雑誌『文化評論』に連載された小説である。日露戦争前後に荒川鉱山で過酷な労働のなかから次第に階級的に目覚めてゆく女性りんの成長を描いた小説で、1968年には第8回田村俊子賞を受賞している。また、1969年には続・編とあわせて第1回多喜二・百合子賞を受賞している。
りんの物語は娘・ひろへ受け継がれ、1974年には『おりん母子伝』、1976年には『桃割れのタイピスト』と続く松田解子の代表作「おりん」三部作となっている。
脚注
[編集]- ↑ 第3回秋田県鉱山サミット「秋田県の鉱山に見る歴史」(秋田県鉱山資料館等連絡協議会・日本鉱業史研究会共催 於:秋田大学鉱業博物館)藤本大士、2012年9月13日
- 1 2 3 4 5 6 7 秋田の荒川鉱山、展示を再開 観光用坑道崩落から2年 朝日新聞 2008年04月13日
- ↑ “大仙市荒川鉱山跡地観光施設条例”. 大仙市 (2005年3月22日). 2017年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月2日閲覧。
- ↑ “秋田の荒川鉱山、展示を再開 観光用坑道崩落から2年”. コミミ口コミ. 朝日新聞 (2008年4月13日). 2013年7月2日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- マインロード荒川 - 全自動さじなげ委員会