自動車大競走会

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自動車大競走会
開催概要
主催 米国日本人自動車研究会[1][2][3][4](American-Japanese Automobile Association[5][注釈 1]
名称 (旧字) 自動車大競走會[注釈 2]
関東 (目黒競馬場)
大会名称 自動車大競走会[4](東京自動車及自動自転車競技会[11][12]
開催日 1915年10月16日(土)
1915年10月17日(日)
開催地 大日本帝国の旗 大日本帝国
東京府東京市目黒村 目黒競馬場
コース形式 オーバルトラック非舗装(芝)[13]
コース長 1マイル[14]
天候 10月17日は曇天[15][11]で午後から雨[15][16][注釈 3]
観客数 約1,000人[11][16]もしくは約7,000人[13](どちらも10月16日)
初日より多くの入場者(10月17日)[15]
入場料 1等席1円、2等席50銭、軍人はその半額[2][3][4][17][18]
関西 (鳴尾競馬場)
大会名称 自動車大競走会[7]
開催日 1915年11月20日(土)
1915年11月21日(日)
開催地 大日本帝国の旗 大日本帝国
兵庫県武庫郡鳴尾村 鳴尾競馬場
コース形式 オーバルトラック非舗装(土)
コース長 1マイル[10]
天候 小春日和(11月21日)[19]
観客数 4,000人から5,000人(11月21日)[19]
入場料 1等席50銭、2等席30銭、3等席15銭[6][7]

自動車大競走会(じどうしゃだいきょうそうかい、旧字体自動車大競走會[注釈 2])は、日本において1915年大正4年)に開催された四輪自動車による自動車レースである[注釈 4]。10月に東京府関東)の目黒競馬場で開催され、11月に兵庫県関西)の鳴尾競馬場で開催された。

10月に目黒競馬場で開催された大会は、興行として開催されたものとしては日本で最初の四輪自動車レースとされる。また、日本において複数の純レーシングカーを用いて開催された初の自動車レースにあたる[20]

概要[編集]

1914年(大正3年)に上野恩賜公園で開催された東京大正博覧会を記念して、翌1915年に日本初の自動車レースとして開催された[21][12]

この大会はロサンゼルス在住の在米日本人たちによって企画され、車両は彼らが来日に際して持参した4台のレース専用車両が用いられた[12]。内容の半分以上は見世物に近く、競技性は乏しいものだったが、各開催日の最終日には本格的な競走が行われた[22]

興行が期待外れの結果に終わったため、大会を企画・実施した在米日本人たちは赤字を抱え、持参した4台の車両を全て売却して帰国した[12]

開催に至る経緯[編集]

アメリカのロサンゼルスに在住する日本人の自動車愛好家の有志が、大正博覧会にちなんで東京で御大典記念の自動車レースを興行し、一儲けしようとしたのが企画の端緒である[20][注釈 5]

ロアジ自動車学校[注釈 6]の校長である小川喜平を団長として、佐多、中川、藤川、佐藤、阪本といった在米日本人自動車研究会のメンバーのほか、ジョージ・ニューマンという人物が加わり、本格的な「純レース用車両」(レーシングカー)である、マーサー英語版2台、スタッツ英語版1台、ケース英語版1台の計4台とともに来日した[20][18][23]

当時の日本には自動車レースの開催を想定した施設は存在せず、やむなく競馬場と交渉を行ったが芝生を傷める心配から交渉は不調続きとなり、再三の交渉の結果、関東では目黒競馬場だけが開催を承諾し、会場が決定した[20]

開催の内容[編集]

目黒競馬場のコース図

目黒競馬場における開催も鳴尾競馬場(兵庫県)における開催も、二輪との共催という形で行われた。この時期、二輪のレース(オートバイレース)は既に日本各地で開催されていたため、二輪の参加者は日本で募集して充分な数が集まり[注釈 7]、この大会では四輪自動車のレースと二輪自動車のレースが交互に行われた[22]。(→#レース内容

四輪自動車のレースは4台の自動車に自動車研究会のメンバーが代わる代わる乗り込み行われた。ただし、レースは4台を同時に走らせることはせず、基本的に2台ずつで競走を行った。そうした形式になった理由は定かではなく、競馬場の走路の狭さのためとも[22]、自動車レースがどういったものか知らなかった警察によって複数台を同時に走らせることを禁止されたためとも言われている[24]。いずれにせよ、開催レースの過半は競走の途中でピットに入って義務としてのタイヤ交換や服の着替えなどを行う「障害物レース」として開催され、運転技術や車の性能を競うようなものではなく、見世物としての要素が強いものだった[16][23][22]

しかし、各開催日の最終レースだけは通常の競走が行われ、3台が雁行する形でローリングスタートを行い[注釈 8]、爆音を立てつつ猛スピードで走って25マイル(25周)のレースを戦い、本来の自動車レースの姿を日本で初めて示した[23][22]。それまでの見世物的な障害物レースには興味を示さなかった自動車人士たちも、これには興味を覚えたと言われている[23][22]

自動車レースの知識がある者ならば誰しも、このような、路面は芝生でバンクもついていないようなコースで真剣なレースをしようという考えには失笑を禁じ得ないだろう。これでは車はコーナーでコース外に飛び出すほかなく、自殺行為と言うほかない。昨日のドライバーたちもそのことはわかっていたと見え、スピードの欠如を芝居じみた演出で補うことにしたようだ。観客たちの中にはこれを(競技として)真面目に受け取ろうとした者もいたが、大多数はこれを単純に娯楽として楽しんだようだ。参加者には観客たちの中に知り合いを見つけて手を振る者もおり、これは社会性のあらわれではあるが、「美女とはしけ英語版」のバーレイ船長に言わせれば「愛想が良すぎる」といったところだろう。[13] — 『ジャパンタイムズ』(1915年10月17日)による、目黒競馬場における開催初日のレース評
この勝負は観客一同の期待しただけそれだけ操縦者も妙技を演じて、走行二十マイル位から一二週1、2周毎にその決勝点迄相前後すること約三回にして観客に少からず気を揉ませるのであったが観客の中にはこの競走は観客を喜こばせむ為めの八百長的競走なりなど悪罵するものもあったが、ここにはそれを兎角云ふ必要がない故、その見解は見た人の考に任かせて、その興味ある操縦ぶりを賞賛するのである。[11] — 雑誌『自動車』(1915年11月号)による、目黒競馬場における開催初日の最終レース評

興行の失敗[編集]

この大会は、主催者が期待していたほどには観客が集まらず[12]、目黒競馬場の初日の観客数は1,000人ほどに留まったとされ[16]、当時すでにオートバイレースが盛んに開催されていた関西地方の鳴尾競馬場の開催でも2日目(日曜日)に5,000人弱という結果で[19]、興行としては成功しなかった[25][W 1]

失敗の要因[編集]

興行失敗の要因として、当時の日本人には四輪自動車そのものに馴染みがなかったことが大きいと考えられている[12]

当時の日本では自転車や二輪自動車(オートバイ)はすでに親しまれており、オートバイレースは1912年(明治45年)5月に鳴尾競馬場で「第1回自動自転車競走会」が開催されている[26]。興行としては日本初のオートバイレースとされるこの大会は2万人の観客を集めるという成功を収め[12][27]、1915年までの数年間で複数のオートバイレースが好評の内に開催されている[注釈 9]

自動車大競走会が開催された1915年の時点では知りようもなかったことだが、それら二輪レースと観客数で大差がついたことは必ずしも例外的な結果というわけでもなかった。四輪の自動車レースは、1922年(大正11年)に初開催された日本自動車競走大会によって、日本国内でも本格的に開催されるようになったが、戦前期の日本では四輪自動車のレースよりオートバイレースのほうが人気は圧倒的に高く、集客力に数倍の差があるという状態は戦前期を通じた傾向だった[28]。二輪自動車レースのほうが人気を博する傾向は戦後も続き、その流れが変化を見せ始めたのは1962年に鈴鹿サーキットが完成し、その翌年から四輪自動車レースが行われるようになって以降のこととなる[29][注釈 10]

自動車関係者の非協力[編集]

興行失敗の一因として、一行が日本の自動車人士たち[注釈 11]の協力を得られなかったことも指摘されている[16]。当時の日本における代表的な乗り物雑誌である『モーター』誌(極東書院)はレース開催前にまともな紹介記事を掲載せず、露骨に揶揄した[16]。当時の日本国内の自動車関係者が一行に協力したり便宜を図ったりしたという記録や証言も確認されていない[注釈 12]。そうした冷遇となった理由は不明だが、一行の目的が興行収入にあったせいか、あるいは日本人を見下し、礼を欠いたのだろうと推測されている[16]

主催者の結末[編集]

興行が失敗して赤字を抱えた一行は、帰国費用を工面する必要も生じたことから、持ちこんだ4台の車両を全て実業家の野澤三喜三に売却した[20][30]。野澤はこの4台を当時としては大金の1万円で買い取ったという[31][注釈 13]。さらに入国時の脱税が発覚したことで、一行は逃げるようにして日本から去ることを余儀なくされた[16][注釈 14]

評価と影響[編集]

このレースは興行としては失敗に終わったが、純粋なレーシングカーを日本に持ち込んだことや、レースのやり方を日本で紹介したことについては一定の意義があったと評価されている[20]

しかし、このレースの開催は忘れ去られることになる[32][注釈 15]。その後への直接的な影響は、この大会の車両を買い取った野澤三喜三がその車両の一部を1920年代の日本自動車競走大会に参戦させたこと程度に留まる。(→#車両のその後

レース内容[編集]

参加者[編集]

目黒競馬場における開催時は、四輪の参加者は「9名」が予定されていると報じられている[9]

鳴尾競馬場における開催時は、四輪の参加者として「渡邊、小川、藤岡、中川、松永、佐多、宮原、阪本」[10]の8名が参加したとされる。

使用された車両[編集]

車両は、一行がロサンゼルス郊外のアスコット公園で走らせていた5台の内の4台にあたる[23][33]

米国から持ち込まれた4台のレーシングカーは、フロントグリルにそれぞれ「1」から「4」までの番号が書かれ区別された。二輪自動車(オートバイ)については、日本で募集に応じた参加者たちが持参した。

持ち込まれた四輪車両は全速力を出せば時速90マイル(およそ時速145 km)で走れる性能を持ち、鳴尾競馬場のコースでも時速75マイル(およそ時速120 km)は出せるだろうと見込まれていた[10]

車番 車両 出力 塗色[34]
1号車 ケース英語版 40馬力[35][16] (不明)
2号車 マーサー英語版 70馬力[36][16]もしくは75馬力[8]
3号車 スタッツ英語版 35馬力[16]、40馬力[35]、80馬力[36]もしくは90馬力[8]
4号車 マーサー 70馬力[36][16]もしくは75馬力[8]
出典: [16]

目黒競馬場[編集]

審判長は警視庁の「原田技師」[注釈 16]、審判員は寳田壽(宝田壽)、小林吉次郎[注釈 17]小栗常太郎が務めた[11]

1日目の大会は、当時の記事によって開催内容に若干の差異がある(大筋は同じ)。2日目の大会は15時30分に予定通り閉会となったが、午後は降雨により自動車は思うように走れなかったという[15]

競技 距離 (マイル) 走行台数 1着と上位のタイム 内容 出典
1日目・10月16日(土)
番外 オートバイレース 10 4 20分24秒5[13][11][注釈 18](1着・中村[35][11] ダグラス(中村)、インディアン(鈴木)、トライアンフ、プレスエーの計4台が参加[11] [13][35]
番外 オートバイレース 10 4 17分35秒(1着・松本[35][注釈 19] インディアン5馬力が2台、エール、ダグラスの4台が参加[11] [13][35][34][11]
1 四輪自動車障害物レース
(旗取り5マイル競走[11])
5 2 7分26秒 (1着・中川)
7分28秒 (2着・宮原)[35][11]
中川のケース(1号車)と渡邊のスタッツ(3号車)が競走した[35]。レースは5マイル、すなわち5周を走り終わった後でドライバーが降車して自分の足で走り、旗を取ってゴールするという趣向で行われた[35][注釈 20]。どちらの車もコース上で岩場の道を行くかのように跳ね、まともなレースにはならなかったとも言われている[13] [13][35]
「旗取り5マイル競走」と「タイヤ取替競走」の間に行われた競技は、オートバイレースという説と、四輪自動車の障害物レースという説の2説が伝わっている。
番外 オートバイレース 10 4 不明 4台によって争われ、2台が完走した。二輪ではこの日の最高速となる時速43マイル(およそ時速69 km)が記録された[注釈 21] [13]
(2) 四輪自動車障害物レース
(服装着替競走[11])
10 2 7分26秒 (1着・中川)[注釈 22] 中川のケース(1号車)と渡邊のスタッツ(3号車)が競走した。 [11]
2 (3) 四輪自動車障害物レース
(タイヤー取替競走[11])
10 2 このレースの展開は2説が伝わっている。
10分12秒 (1着・4号車)[8] マーサーの2号車と4号車が競走した(ドライバーは不明)[8]。1周目が終わった時点で後輪2輪のタイヤ交換を行う義務が課され、タイヤ交換には4号車は2分55秒、2号車は3分10秒を費やした[8] [13][8]
12分55秒 (1着・3号車) 渡邊のスタッツ(3号車)と坂本のマーサー(4号車)が競走した。1周目が終わった時点でドライバーと助手(コ・ドライバー)でタイヤ交換を行った。 [11]
3 (4) 四輪自動車レース 25 3 1時間14分08秒 (1着・4号車)
1時間14分10秒 (2着・2号車)[8]
マーサーの2号車と4号車、スタッツ(3号車)が競走した[8](ドライバーは不明[注釈 23])。このレースは真剣に行われ、観客を熱狂させた[8]。3号車は早々に脱落して2号車と4号車のマッチレースとなった[34]。20周目から最終周(25周目)までの間、1、2周ごとに抜きつ抜かれつする争いがあったとされる[11]
このレースでこの日の最高速となる時速48マイル(およそ時速77 km)が記録された[34][13]
[13][8][34]
2日目・10月17日(日)
番外 オートバイレース 10 4 14分42秒(1着・和田) 優勝した和田はハンバー英語版・3馬力を操縦。 [11]
番外 オートバイレース 5 不明 8分50秒(1着・大野) 優勝した大野はインディアン・3馬力を操縦。 [11]
番外 オートバイレース 15 7 22分20秒5(1着・松本) 優勝した松本はインディアン・11馬力を操縦。ハンバー、ダグラスがそれに続いた。 [11]
1 四輪自動車レース 9 2 6分21秒 (1着・渡邊) 中川のケース(1号車)と渡邊のスタッツ(3号車)が競走した。勝利した渡邊は最高時速54マイルを記録。 [11]
2 四輪自動車レース 5 3 7分04秒 (1着・宮原) 宮原のマーサー(2号車)、渡邊のスタッツ(3号車)、坂本のマーサー(4号車)が競走した。雨が時折り降るレース。最高時速49マイルを記録。 [11]
3 四輪自動車障害物レース
(タイヤ取替競走)
5 2 5分51秒 (1着・宮原) 宮原のマーサー(2号車)、坂本のマーサー(4号車)が競走した。宮原はタイヤ交換に1分35秒を要した。 [11]
番外 オートバイ障害物レース 5 不明 不明 途中で帽子を拾うなどの障害物レース。 [11]
番外 オートバイレース 5 不明 8分15秒(1着・高島)
8分18秒(2着・松本)
同日のレースで勝利した松本のインディアン・11馬力を倒すため、他の参加者は奮起し、その様相が壮快を極めたとされる。ダグラス・3馬力に乗る高島が僅差で松本を下して勝利し、場内からの大喝采を博した。 [11]
4 四輪自動車レース 25 3 53分42秒 (1着・渡邊
(2着・宮原)
宮原のマーサー(2号車)、渡邊のスタッツ(3号車)、坂本のマーサー(4号車)が競走した。雨がかなり降る中でのレース [11]

鳴尾競馬場[編集]

大阪朝日新聞』(朝日新聞大阪本社)が優勝旗と銀牌を提供し、初日は優勝旗は障害物レースで勝った宮原(宮原才熊[7])に、銀牌は初戦で勝った阪本に贈られた[10][7]

四輪レースでは、関西で初期の飛行家として知られた高左右隆之が参戦し、二輪レースでは、この年に上海市で開催された第2回極東選手権競技大会(通称「上海オリンピック」)の自転車15マイル競技の優勝者である藤原正章が参戦し、それぞれ話題となった[7]

競技 距離 (マイル) 走行台数 1着と上位のタイム 内容 出典
1日目・11月20日(土)
1 四輪自動車レース 5 2 6分04秒 (1着・阪本)
6分25秒 (2着・佐多)
阪本のマーサー(4号車)と佐多のマーサー(2号車)が競走した。勝利した阪本には銀牌が贈られた。 [10]
番外 オートバイレース 不明 4 6分26秒 (1着・藤原) [10]
2 四輪自動車障害物レース 5 2 9分40秒 (1着・宮原) 宮原のマーサー(2号車)と松永のマーサー(4号車)が競走し、下記の形式で行われた。
1周目終了時 - 運転手と助手が降車し、後輪のタイヤ2本を交換[22]
3周目終了時 - 運転手と助手が降車し、ラジエーター冷却水を補充。
[10]
3 四輪自動車レース 5 2 6分40秒 (1着・中川) 中川のマーサー(2号車)と渡邊のスタッツ(3号車)が競走した。 [10]
番外 オートバイレース 5 3 7分08秒 (1着・小林)
7分15秒 (2着・近藤)
[36]
番外 オートバイ旗拾いレース 5 5 7分19秒 (1着・藤原)
7分44秒 (2着・小林)
7分48秒 (3着・ジョン・アラヴ)
[36]
4 四輪自動車障害物レース 10 2 15分40秒 (1着・高左右)
15:42秒 (2着・宮原)
宮原と高左右が競走した(車両は不明)。
途中で給油が義務として行われ、高左右は1分30秒、宮原は50秒を要した。
[36]
番外 オートバイレース 10 8 12分48秒 (1着・藤原)
13分07秒 (2着・江見)
14分00秒 (3着・高井)
この大会で最大となる8台のオートバイが競走した。このレースでは上位を走行していた小林國松がコーナーを曲がり切れず、クラッシュして軽傷を負う。 [36]
5 四輪自動車レース 25 4 (3 + 1) 31分47秒 (1着・渡邊) 佐多のマーサー(2号車)、渡邊のスタッツ(3号車)、坂本のマーサー(4号車)に加え、藤原のオートバイを加えた4台で争われた[注釈 24]。最初は坂本がリードしたが、途中で渡邊が坂本を抜いてそのまま優勝した。 [36]
2日目・11月21日(日)
1 四輪自動車レース 5 2 6分57秒 (1着・阪本) 阪本のマーサー(4号車)と佐多のマーサー(2号車)が競走した。 [19]
2 四輪自動車障害物レース 5 2 8分30秒 (1着・宮原)
9分55秒 (2着・中川)
宮原と中川が競走した(車種不明)。勝利した宮原には銀牌が贈られた。 [19]
3 四輪自動車レース 5 2 6分40秒 (1着・藤岡) 参加者(藤岡の対戦相手)と車両は不明。 [19]
4 四輪自動車レース 5 2 8分24秒 (1着・谷) 参加者(谷の対戦相手)と車両は不明。 [37]
5 四輪自動車障害物レース 不明 2 9分40秒 (1着・宮原) 宮原のマーサー(2号車)が出走(対戦相手と車両は不明)。途中、タイヤ交換に2分53秒を要する。 [37]
番外 オートバイレース 5 6 7分06秒 (1着・高井) [37]
6 四輪自動車障害物レース 10 2 11分59秒 (1着・佐多) 佐多のマーサー(2号車)が出走(対戦相手と車両は不明)。1周目の終わりに服装の着替えが行われ、佐多は46秒を着替えに要した。 [37]

車両のその後[編集]

大会後に野澤三喜三によって買い取られた4台の車両はそれぞれ下記のような運命をたどったとされ、現存が確認されている車両はない。

  • 1号車・ケース(40馬力)
この車両は、他の3台に比べて優れた性能ではなかったため、解体されたと言われている[38][注釈 25]
  • 2号車・マーサー(70 - 75馬力)、4号車・マーサー(70 - 75馬力)
2台のマーサーのどちらか(おそらく4号車)は屋井三郎が野澤から買い取り、日本自動車競走大会で車番「2」を付けて走った[32][16]
もう1台の車両(おそらく2号車[33][注釈 26])は野澤によって研究に用いられたとされ[32]、野澤は車両のボディを国井自動車室製作所に依頼して乗用車ボディに作り替え[38][注釈 27]、野澤の自家用車となった[39]
  • 3号車・スタッツ(出力は35馬力から90馬力まで諸説ある)
この車両は、陸軍飛行隊からの希望を受け、車両から取り出されたエンジンが教育用に用いられたと言われている[38]
一説には、日本自動車競走大会の初期に関根宗次が使用したスタッツも同じ個体で、野澤の立川工作所で新たに作られたボディを装着したものだとも言われている[41][注釈 28]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 主催者の名称は新聞広告で確認できるが、微妙に差異があり、東京開催では「米国日本人自動車研究会」[4][3]、鳴尾競技場の開催では「在米日本人自動車研究会」[6][7]、「在米邦人自動車研究会」[6]と記載されており、一定しない。
  2. ^ a b 当時の名称(旧字体)は、「自動車大競走會」のほか、「自働車大競走會」[8]となっているケースや、「自動車大競爭會」[3][4]となっているケースもある。歴史的仮名遣による読みは「じどうしゃだいけうそうくわい」[9]だが、この大会について、当時の記事で「競走」のルビは「けうそう」、「きゃうそう」[10]で一定していない。
  3. ^ 2日目(10月17日)は「生憎朝来曇天であったが前日に増した入場者数を見た」と報じられているので[15]、1日目(10月16日)は晴れだったと推定できる。
  4. ^ 開催年について、「1914年(大正3年)」としている書籍や記事が複数存在するが、このレースの開催と内容について報じた当時の新聞記事などから明らかに「1915年(大正4年)」が正しい。
  5. ^ 新天皇の即位を記念して自動車競走を開催しようと声を挙げたのは、有楽町で輸入自動車販売を営んでいたジュアン・ブラナスという人物だという説もある[23]
  6. ^ ロアジはロサンゼルスの略[20]
  7. ^ 目黒競馬場における開催時は、開催前日の告知で二輪は「10人」が参加予定と報じられている[9]
  8. ^ これも何らかの理由により、停車状態から並列同時スタートすることはできなかった。
  9. ^ 二輪レースは関西以西を中心に盛んに開催され、大正期のオートバイレースの中には10万人以上の観客を集めたと言われている大会も複数の例がある[26][28]。中でもこの自動車大競走会でも開催地となる鳴尾競馬場は「日本のブルックランド(ブルックランズ)」と呼ばれ、大正期のオートバイレースの聖地となっていた[26][28]
  10. ^ 自動車大競走からおよそ50年後ということになる。日本で四輪自動車が大衆車として普及し始めるのも1960年代後半以降でほぼ同時期にあたる。
  11. ^ 当時の自動車愛好家である富裕な人々や、自動車関係の実業家や技術者たちを指す。
  12. ^ 4年前の1911年(明治44年)に米国から曲芸飛行家のジェームズ・C・マース英語版が来日した際は、大倉喜七郎内山駒之助といった著名な自動車人士たちが参加し、マース飛行士の飛行機と自動車による競争が行われている。
  13. ^ この時点では野澤はレースで使用することを意図して買い取ったわけではなく、自動車とレースへの個人的な興味から買ったのだという[31]
  14. ^ 関税を払っていなかったことの後始末は野澤がすることになった[22]
  15. ^ 四輪の自動車レースが開催されることもしばらくなくなった。ただし、1910年代後半に来日したアート・スミスのような曲芸飛行士たちが演目の合間に行った豆自動車レースであるとか、オートバイレースの開催時につなぎとして行われた四輪自動車レースなど、余興として開催されたものを除く。
  16. ^ 明記していないが、おそらく当時の警視庁の原田九郎技師のこと。
  17. ^ 明記していないが、おそらくアンドリュース・アンド・ジョージ商会の小林吉次郎のこと。
  18. ^ 1着のタイムは『時事新報』では「20分5秒」となっている[34]
  19. ^ 雑誌『自動車』の1915年11月号では優勝者は「坂本」となっている[11]
  20. ^ 『報知新聞』はそのように報じているが[35]、『時事新報』記事はこのレースがタイヤ交換競走で、1着は「7分35秒」だったとしている[34]
  21. ^ 最高到達速度とい意味なのか、ラップ平均時速という意味なのかは定かでない。
  22. ^ 「旗取り5マイル競走」のタイムと同じ[11]。距離は倍の10マイルとあり[11]、速度が速すぎるので、誤記の可能性あり。
  23. ^ 雑誌『自動車』の1915年11月号では勝利したのは「坂本のマーサー」としている[11]
  24. ^ このレースの「坂本」は、他のレースの「阪本」と同一人物(名前の誤記)なのか、別人なのか定かではないため、典拠のまま表記している。
  25. ^ 1922年に藤本軍次下関東京間で鉄道との競走をした際に使用した「ケース号」になったという説もあるが[16]、この車両は藤本が帰国時に持ち込んだハドソンに「ケース」の名を付けただけとする解釈が一般的である(詳細は「藤本軍次」を参照)。
  26. ^ 野澤が自家用車にしたマーサーのフロントグリルには「2」のカーナンバーがあり、自動車大競走会の時のそれがそのまま残されたものと考えられる[39][33]
  27. ^ 大正初めの頃、自動車関連の有力な会社の多くは東京市の中でも京橋区に集中して所在しており、野澤の野澤組本社も国井自動車室製作所も京橋区内に所在している[40]
  28. ^ 関根のスタッツは「1915年式」の車両だとも言われていることから[42][16]、同じ個体だとした場合、このスタッツは日本に持ち込まれた時点で新車に近かったことになる。

出典[編集]

出版物
  1. ^ 自動車 1915年10月号、「米国日本人自動車研究会主趣意書」 pp.6–7
  2. ^ a b 『報知新聞』大正4年(1915年)10月14日・朝刊 7面・広告
  3. ^ a b c d 『時事新報』大正4年(1915年)10月14日 8面・広告
  4. ^ a b c d e 『東京朝日新聞』大正4年(1915年)10月14日・朝刊 1面・広告
  5. ^ “広告 (Automobile & Motorcycl Race)” (英語). The Japan Times & Mail: p. 8. (1915年10月13日) 
  6. ^ a b c 『大阪朝日新聞』大正4年(1915年)11月19日・朝刊 8面・広告 ※同内容の広告は翌日朝刊の8面にも掲出されている
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ウェブサイト
  1. ^ 多摩川スピードウェイ――自動車競走の時代 (1936年)”. Gazoo (2017年1月13日). 2022年11月12日閲覧。

参考資料[編集]

書籍
  • 自動車工業会『日本自動車工業史稿』 第1巻、自動車工業会、1965年11月11日。ASIN B000JABUICNCID BN06415864NDLJP:2508658 
  • 自動車工業会『日本自動車工業史稿』 第2巻、自動車工業会、1967年2月28日。ASIN B000JA7Y64NCID BN06415864NDLJP:2513746 
  • 桂木洋二 (編)『日本モーターレース史』グランプリ出版、1983年7月25日。ASIN 4381005619ISBN 978-4381005618NCID BN13344405 
  • 佐々木烈『日本自動車史II ─日本の自動車関連産業の誕生とその展開─』三樹書房、2005年5月20日。ASIN 4895224546ISBN 978-4-89522-454-3NCID BA72460305 
  • GP企画センター編『日本自動車史年表』グランプリ出版、2006年9月20日。ASIN 4876872864ISBN 4-87687-286-4NCID BA78543700 
  • 杉浦孝彦『日本の自動車レース史 多摩川スピードウェイを中心として』三樹書房、2017年4月17日。ASIN 4895226670ISBN 978-4-89522-667-7NCID BB23601317 
  • 三重宗久『戦前日本の自動車レース史 藤本軍次とスピードに魅せられた男たち』三樹書房、2022年4月20日。ASIN 4895227723ISBN 978-4-89522-772-8NCID BC14200480 
雑誌 / ムック
  • 『自動車』
    • 『第3巻第10号(1915年10月号)』日本自動車倶楽部横浜支部、1915年10月15日。NDLJP:1508156 
    • 『第3巻第11号(1915年11月号)』日本自動車倶楽部横浜支部、1915年11月15日。NDLJP:1508157 
  • Old-timer』各号中の記事
    • 岩立喜久雄「轍をたどる(18) 戦前自動車競走史-1 追想オートバイ競走会」『Old-timer』第69号、八重洲出版、2003年4月1日、166-171頁。 
    • 岩立喜久雄「轍をたどる(20) 戦前自動車競走史-3 関西競走会と鳴尾競馬場の記録」『Old-timer』第71号、八重洲出版、2003年8月1日、166-173頁。 
    • 岩立喜久雄「轍をたどる(21) 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次」『Old-timer』第72号、八重洲出版、2003年10月1日、166-173頁。 
  • 『日本の名レース百選』
新聞

外部リンク[編集]