聖ペテロの涙 (エル・グレコ、ボウズ美術館)

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『聖ペテロの涙』
スペイン語: Las lágrimas de san Pedro
英語: The Tears of Saint Peter
作者エル・グレコ
製作年1580-1589年
種類キャンバス上に油彩
寸法108 cm × 89.6 cm (43 in × 35.3 in)
所蔵ボウズ美術館英語版バーナード城英語版

聖ペテロの涙』(せいペテロのなみだ、西: Las lágrimas de san Pedro: The Tears of Saint Peter )、または『悔悛する聖ペテロ』(かいしゅんするせいペテロ、西: San Pedro penitente: Penitent Saint Peter)は、クレタ島出身のマニエリスムスペインの巨匠エル・グレコが1580-1589年ごろ、キャンバス上に油彩で制作した絵画である[1]。現在、イギリスバーナード城英語版にあるボウズ美術館英語版に所蔵されている[1][2][3]。絵画の主題は、「マタイによる福音書」 (26:57-75)、「マルコによる福音書」 (14:53-72)、「ルカによる福音書」 (23:54-62) から採られており[2]イエス・キリストを裏切った後に泣いている使徒ペテロが表されている[2][3]。エル・グレコは、この主題を図像化した初めての画家である[4]

作品[編集]

福音書」の記述によると、キリストがイスカリオテのユダに率いられた人々に捕えられると、ペテロはキリストの後に従い、大祭司カパヤの邸宅の中庭にまで入り込んだ。彼はそこで見つけられ、キリストの仲間だろうと責められるが、キリストとは無関係だと主張する。その後、ペテロは「鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うであろう」という主の言葉を思い出して、悔悟のあまり激しく泣いた[1][2][3][4]

「悔悛する聖ペテロ」の主題が一般的になったのは16世紀末である。この背景には「悔悛するマグダラのマリア」と同様、当時、対抗宗教改革を推進したカトリック教会の強力な支持があったものと思われる[2]プロテスタントにとってペテロは主キリストを否んだ使徒に過ぎなかったが、カトリック教徒にとってはカトリック教会の初代教皇であった[4]。そして、ペテロの悔悟の涙は、カトリック教会にとっては罪の許しを乞うための告解という秘蹟の1つの象徴となった[4]

エル・グレコ『悔悛するマグダラのマリア』(1577-1580年ごろ)、ウースター (マサチューセッツ州)、米国

エル・グレコはスペインに渡ってから先行して描いた「悔悛するマグダラのマリア」[4]と同じく、何度も「聖ペテロの涙 (悔悛する聖ペテロ)」を描いている[2]。これらの作品には細部の相違と様式の違いはあっても、全体の構図とペテロの姿にはほとんど相違はない。すなわち、ペテロは画面中央で身体をやや左側に向け、激しい悔悟の念を象徴するかのように太い両手を握り合わせ、髭面の頬を涙に濡らし、目を大きく見開いて斜めに天を見上げている。「マグダラのマリア」の場合と同じく、背後には崖があり、ツタが描かれている[2][3]。ツタには多くの宗教的意味があるが、常緑であるところから死後の魂の永遠性の象徴である[1]。なお、本作も含め「聖ペテロの涙」のいずれの作品においても、崖の途切れるペテロの左背後遠くに、マグダラのマリアがキリストの墓を訪れ、キリストの遺体がないことを発見する (あるいは、マグダラのマリアがキリストの死をペテロに知らせようと急ぐ[3][4]) 場面が描かれている[1][2]

エル・グレコは少なくとも6回「聖ペテロの涙」の絵画を描いており[1]、それらはソウマヤ美術館オスロサン・ディエゴ美術館英語版トレド美術館などに所蔵されているが、本作は制作年代の最も早いものである[2]。技法も後年の荒いタッチでフォルムを作るといったものではなく、正確なデッサンにもとづき、特にペテロの顔や腕などは細部にいたるまで写実的に描かれている。色調の面でも、他の『聖ペテロの涙』のほとんどすべてが信仰の啓示を象徴する黄色の外衣を纏っているのに対し、本作では黄色の外衣は腰に見えるだけで青い衣を纏っている。また、後のヴァージョンでは全体が強烈な暖色を基調にしているが、本作では青い衣に加えて水色の空という清澄な色彩が基調をなしている。加えて、後のヴァージョンでは必ず描かれているペテロを象徴する「天国の鍵」も本作には描かれていない[2]

エル・グレコの『聖ペテロの涙』[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f The Tears of St. Peter”. ボウズ美術館公式サイト (英語). 2023年12月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『エル・グレコ展』、1986年、182-183頁。
  3. ^ a b c d e 大高保二郎・松原典子 2012年、33頁。
  4. ^ a b c d e f 藤田慎一郎・神吉敬三 1982年、91-92頁。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]