エル・グレコ

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エル・グレコ
El Greco - Portrait of a Man - WGA10554.jpg
生誕 ドメニコス・テオトコプーロス
1541年
クレタ島カンディア
死没 1614年4月7日(1614-04-07)
国籍 ギリシア
教育 カンディア、ヴェネツィアトレド
著名な実績 油彩画、彫刻、祭壇画
代表作 オルガス伯の埋葬
運動・動向 マニエリスム
後援者 フェリペ2世
この人に影響を
与えた芸術家
ティツィアーノティントレットミケランジェロジュリオ・クローヴィオヤコボ・バッサーノパルミジャーノコレッジョ
この人に影響を
受けた芸術家
ホルヘ・マヌエル・テオトコプリパブロ・ピカソ
公式サイト
http://ibiblio.org/wm/paint/auth/greco/

エル・グレコ(El Greco、1541年 - 1614年4月7日)は、現在のギリシアクレタ島イラクリオン出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロスΔομήνικος Θεοτοκόπουλοςラテン文字転写:Doménikos Theotokópoulos)で、一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン来訪前にイタリアにいたためイタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルがついた通称である。マニエリスム後期の巨匠として知られる。マドリードにあるプラド美術館には、グレコの作品が多数展示されている。

人物[ソースを編集]

グレコの作品に書かれたサイン

ヴェネツィア共和国統治時代のクレタ島のカンディア(現イラクリオン)に生まれ、イタリアを経てスペインに渡り、トレドに暮らした。 ギリシア人でありながらフェリペ2世に仕えようとしたが、グレコの作品はフェリペに評価されず、宮廷画家になることは叶わなかった。グレコは晩年に至るまで自身の作品にギリシア語の本名でサインをしていた。 グレコの現存する作品のおよそ85%が聖人画を含む宗教画であり、10%は肖像画となっている[1]。グレコは絵画だけではなく、彫刻や建築の構想も手掛け、特にスペインにいた時期は建築に強い関心を寄せたが、実際に建物の建築をすることは無かった[2]。一方でグレコは自分が描いた油彩画が収められる祭壇衝立の設計、工房の彫刻家の人物像の原案の素描、建築家と共に祭壇衝立の設置される礼拝堂の建築、採光の考案なども手掛けた[3]

出生前後のクレタ島の状況[ソースを編集]

14世紀[ソースを編集]

教育面ではビザンティンの影響が強く、聖職者が家庭教師となり、修道院に教室が設けられた。14世紀中頃クレタ島でのギリシア語教育は充実し、南イタリアにいたギリシア人たちがギリシア語を学びにクレタ島に集まった[4]

15世紀[ソースを編集]

250年ほど侵略者たちによってクレタ島の支配権が争われたが、1460年以降ヴェネツィアが支配権を握った。しかし政治、経済、軍事面での支配は不十分だった。ヴェネツィア人たちは支配初期からギリシア正教の支配を廃止し、聖職者の行動を都市国家の支配下に置いた。これは元々あったヴェネツィア人とクレタ島の住民の溝を深め、結果双方の文化的交流は15世紀以前に行われることはなく、それぞれの文化を保持することとなった。15世紀にはクレタ島での学問が盛んになり、それが教育の充実に繋がった。15世紀の多くの学者、写本家はクレタ島出身であり、彼らは西欧へのギリシア文化の拡散に重要な役割を果たした。また中流階級で職人がいたことから、ギリシア文学の拡散も起きたと考えられている。当時のサインの複雑さから、読み書きの普及と学校教育が都市部で普及したと推測される。コンスタンティノープル陥落後ギリシアとラテンの文化的交流がなされるようになり、クレタ島とヴェネツィア間でもそれが行われた。これによって15世紀末、ラテン文化が島の都市部に流入した[4]

16世紀[ソースを編集]

16世紀からは生活様式が競技場の議論の的となった。ヴェネツィアはクレタ島での教育より軍事に予算を充てることで、ギリシャ正教のインテリの産出を拒絶しようとしたと考えられている。しかし結局それは叶わず、宗教的な寛容性が認められることとなった。この時期からヴェネツィアからのカトリックのプロパガンダへの援助は打ち切られ、クレタ島におけるカトリックの人口は急激に減少した。さらに16世紀末にはギリシアがローマ教皇の機関から外され、ギリシア正教の生活に則ったものが定められた。これによりラテン系の聖職者の権威が弱体化し、教会の数が減少した。16世紀のヴェネツィア共和国の中でクレタ島は植民地ではなく州という扱いになり、やがてトルコの支配下に下るまでクレタ島とヴェネツィアは同じ社会のものとなった。これにより正教とカトリックの相互理解は深まったものの、お互いの敵愾心は消えず、文化交流の妨げとなった。16世紀中頃からギリシア正教の学校が反映し、最終的にはヴェネツィア側もカンディアの学校を認めた。中でも大学教育は社会的地位において重要な役割を果たし、16世紀の初めから多くのクレタ人が北イタリアに高い教育水準を求めて移住し、多くはその地に残って学者となった[4]

17世紀[ソースを編集]

16世紀から17世紀における文明開化はビザンティンと西欧文化の調和によって生まれた。当時ギリシア語が言語で勢力を持つようになり、これによってルネサンスで古代ギリシア文明が持ち上げられるようになった。その一方で、ラテン語のアルファベットも流通した。クレタ島の名声は島外にも広がった。1641年のトルコ上陸後、当時クレタ島にいた学者の多くがその地を離れ、その後クレタ島はトルコの支配下に下った[4]

生涯[ソースを編集]

若年期[ソースを編集]

グレコは、1541年に当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島の首都であり港市であるカンディア(現イラクリオン)で生まれた。 ビザンティン帝国は1453年オスマン・トルコによって国としての歴史に幕を下ろした。しかし旧支配地域ではビザンティン美術の伝統であるポスト・ビザンティンが残っていた。それはカンディアでも変わりなく、宗教祭事及び図像学的にカトリックとは異なった世界が形成されていた。グレコはその影響を受けて育った面もある。当時のグレコの作風にはポスト・ビザンティン美術の影響が見られる[5]。カンディアではこのように後期ビザンティン美術の伝統を継ぐ画家となり、同時に独学で部分的にイタリアルネサンス美術の手法を取り入れたと考えられている。1563年にはイコン画家として独立していた[2]1566年に親方である[6]グレコがカンディアで金地に書いたキリストの受難図があり、それをくじで売却するための査定の許可を求めている[2][7]。また同年、トマス・バレストラスによりよりテオトコプーロス兄弟が何らかの形で苦しめられていたことに対して、バレストラスがそれをやめなければガレー船送りにするというヴェネツィア政府の公文書による警告が残っている[6]

ヴェネツィア派との交流[ソースを編集]

グレコによるジュリオ・クローヴィオの肖像

グレコは1567年の春か夏、遅くとも1568年の春か夏にギリシャ系クロアチア人ジュリオ・クローヴィオ英語版の推薦を受けてヴェネツィアに渡っていた[8][注釈 1]その際ティツィアーノ・ヴェチェッリオに弟子入り、もしくは工房の外でその様式を学んだ可能性の方が高いことが指摘されている[2]。これによりグレコはビサンティン方式の一切を放棄したわけではなかったが色彩遠近法解剖学、油彩技法の使用などの点でヴェネツィア・ルネサンス方式を習得していった。他にもヴェネツィアで西欧流の技法や図像、地図製作の知識を習得した[8][9]。当時ファルネーゼ家は教皇パウルス3世を輩出して以来、美術の建築のメセナ[注釈 2]として世に知られていた。グレコは移住の際当時のスペイン人聖職者や人文主義者などがしばしば訪れていたアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿知的サークルと交流を持ち、パラッツォ・ファルネーゼ(ファルネーゼ宮)に自由に出入りができた。また、それゆえに同家のカプラローラにあるパラッツォ・ファルネーゼの装飾にも参加したと考えられている。1570年までヴェネツィアに留まった。 1572年7月6日、突然グレコはファルネーゼ枢機卿に突然の解雇についての釈明の要求と撤回の嘆願を請う手紙を出しており、この頃には既にグレコが解雇され、その上嘆願も届かなかったことが分かっている[10]。同年、サン・ルーカ画家組合[注釈 3]に「ピットーレ・ア・カルテpittore a carte(紙に描く画家という意味)」として登録され、加入している。当時イタリア労働組合の構成員は親方に限られていたことから、この時までにグレコは親方として自分の工房を持っていたことが分かる。これ以降グレコの絵画はイタリアの影響が色濃く反映されており、主に個人の顧客向けの肖像画や小型の宗教画を描いた。当時のイタリアの絵画の主流はヴェネツィアからローマに移っていったため、30歳を迎えようとしていたグレコも、ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてローマへ移動し、1576年から1577年の間定住した。ローマでのグレコの主なパトロンはフルヴィオ・オルシーニ英語版であった[11]。後に勉強のためイタリア各地(パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、パルマ、フィレンツェ)を放浪し、その後にスペインへ渡ったと言われる。

ヤコボ・バッサーノの影響[ソースを編集]

おそらく1561年から1565年はギリシアの技術でイタリアでのやり方で働く方向であった。ヤコボ・バッサーノイタリア語版の門下の関係にあったことが指摘されている[12]

スペインでの活動[ソースを編集]

グレコがスペインを目指した理由は明確ではないが、1577年の春にはマドリードにいたことが記録されている[2]。グレコが到着した時代のスペインは、レコンキスタでの勝利とコロンブスによるアメリカ海域での新世界の侵略、そしてカール5世の国王就任により急激に力を強めていた。仕事以外ではトレドに定住するようになったが、この時期彼は作品の査定額や技術的問題、図像上の問題でグレコ自身やその顧客による訴訟が起こされたことが記録に残っている。 トレドにグレコが向かった理由は、当時神のごとき存在であったミケランジェロをローマで酷評したことが原因と言われる。グレコはローマにいられなくなったという伝説が残るほど辛辣は評価をミケランジェロの絵画に下した。一方でミケランジェロのデッサンに対してはグレコは絶賛している。 当時スペインの芸術家たちは視覚芸術を「自由学芸」、もしくはアカデミックな知的活動であるという認識は広がってはいなかった。そのためフェリペ2世の支援があったにもかかわらず、芸術家たちの社会状況はイタリアと比べてひどく劣ったものであった[13]。 スペインでの初仕事として大聖堂から『聖衣剥奪』、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道院スペイン語版からは3つの祭壇衝立を依頼された。『聖衣剥奪』の完成後、作品を受け入れた大聖堂は「キリストに対する冒涜」(マリアが3人登場していること、キリストの頭より群衆の位置が高く描かれていること)を理由に報酬を踏み倒そうとした。グレコは裁判で争うが、大聖堂はグレコを異端審問にかけると仄めかし、結局調停案(当初グレコが提示していた額の約三分の一の支払い)を受け入れた[14]。1582年には異端審問所で隠れイスラム教徒の嫌疑をかけられた、ギリシャ人少年の通訳を務めている[15]

グレコによるオルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像

フェリペ2世に依頼された『聖マウリティウスの殉教』がエル・エスコリアル修道院の聖堂を飾る祭壇画の一つとして描かれたが、1584年にヒエロニムス会士に受け入れを拒否された。これ以降グレコは次第に工房を広げ、主な仕事として修道院、教区聖堂、礼拝堂の祭壇衝立の一括制作をしつつ、トレドの町とその大司教区にあたる修道院や教区聖堂のための制作も引き受けるようになった。この時期様々な礼拝堂の依頼を個人で、または息子と連名で契約を結んだが、それらの中には実現しなかったものもあった。1603年、グレコはイリェスカス英語版カリダード施療院スペイン語版と祭壇衝立の制作契約を結んだ。しかし1605年8月にその評価額を巡って施療院と対立した。施療院側は祭壇衝立全体で2436ドゥカートとし、《慈愛の聖母》の画中に描かれているひだ襟を付けた肖像画を、施療院にふさわしい人物像に描き変えることを要求した。最終的に1608年に1666ドゥカートがグレコ側に払われることで決着した[16]。1612年から1614年にかけて、グレコは自身の墓碑のためにサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂に《羊飼いの礼拝》を制作した[17]。本作はプラド美術館に所蔵されている[17]。1614年3月31日に遺言状を作成し、その中でホルヘ・マヌエルを相続人、ルイス・デ・カスティーリャと修道士ドミンゴ・バネーガスをその執行人としたグレコは、同年の4月7日にカトリックの臨終の秘蹟を受けこの世を去った。その際友人で修道士、詩人でもあるパラビシーノ英語版は、以下の墓碑銘を捧げている[18][19][注釈 4]

クレタは生と、絵筆をグレコに授け、トレードはグレコの最上の祖国となり、死と共に永遠に生き始める。
"Creta le dio la vida, y los pinceles
Toledo mejor patria,
donde empieza a lograr con la muerte eternidades"


遺体はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ教会の地下に保存されており、棺を上から教会部外者でも見ることができる[21]

知的活動[ソースを編集]

『蝋燭に火を灯す少年』ルネサンス期の流行である古典の記述に基づいて、失われた美術品を再現したと言われる作品。本作はプリニウスの『博物誌』にある記述に基づいて描かれた[22]

グレコの功績は画家としてのものに限らず、多数の文献を所持し、所持した図書の中に多くの書き込みをした。具体例として、ジョルジュ・ヴァザーリによる第二版『美術家列伝[注釈 5]やダニエレ・バルバロの編集したウィトルウィウスの『建築十書英語版[注釈 6]を所持していた[24]。 知識の活用という点では、『博物誌』に基づいて《燃え木を吹く少年》に見られるエクフラシス[注釈 7]が描かれていることからも分かる[25]

家族・関係者[ソースを編集]

グレコの愛人ヘロニマ・デ・ラス・クエバスと言われる肖像画(1570年代後半)。

生地カンディアでの家族で判明しているのは、官吏である父のヨルギと10歳年上であるマヌーソスという兄がいたことである[26]。グレコの家庭は正規のカトリックではなく、家族はヴェネツィアの協力者として働いていたと考えられている[2]

愛人、非嫡出子[ソースを編集]

1578年、グレコはトレドの職人家庭の出身であるヘロニマ・デ・ラス・クエバス(Jerónima de las Cuevas)という女性との間に息子を一人儲けている。この息子は前述のグレコの父と兄の名からホルヘ・マヌエル・テオトコプリと名付けられ、父と同様に画家を目指したようであるが、彼の作品は父の形式を真似たものに留まったようである[27]。また、ヘロニマとの関係そのものもうまくはいかなかったと考えられている[2]。 グレコはヘロニマとは37年間トレドで同棲した。しかしホルヘ・マヌエルを愛し非嫡出子の汚名をそごうとしたグレコであったが、ヘロニマとの結婚はなかったことから、1614年まで正妻が生きていた可能性がある。しかし、これに対して明確な答えは未だ示されていない[28]

助手、弟子[ソースを編集]

スペインへの移動の頃からイタリア人の画家であるフランシスコ・プレボステ(Francisco Preboste)が助手としてついていた。この助手は死ぬまでグレコの助手として働き続けた[2][29]。また、ルイス・トリスタン英語版は弟子であり、彼の場合宗教画にボテゴンの要素を入れていた[30]

評価と研究史[ソースを編集]

生前[ソースを編集]

スペインでグレコを支えたのは、グレコの肖像画に描かれた、少数の知的エリートたちであった。フランシスコ・パチェーコは1611年にグレコのアトリエを訪れた際、「辛辣な言葉を吐く優れた哲人」と学者的知性を褒める一方、「さまざまな色彩をバラバラのままに残して」「果敢さ・卓越ぶり(valentía)を装った」「荒っぽい下描き風(crueles borrones)の貧しくなるような制作態度」と酷評した [31]。 貴族の趣味を反映したマニエリスムは盛期ルネサンスの直後一世を風靡した。しかし背景の知識がいる分難解で一部のエリート層に向けられたものが、カトリックの分脈に合わないとされた。その結果マニエリスムは16世紀以降敬遠され、グレコはマニエリスム共々忘れ去られていった。そして、17世紀は現実感のある自然主義的な描写が好まれるようになった。

17世紀[ソースを編集]

ベラスケスと同時代の宮廷画家であるジュゼッペ・マルティネススペイン語版は未完の著作『高貴なる絵画芸術実践講義』にて「極めて奇抜な手法(una manera tan extravagante)を持ち込んだ」と述べ、後にグレコの絵画に対する常套句である「奇抜な(extravagante)」を生み出した。また「彼は有名な建築家でもあり、その講義はとても雄弁な物があった」と記し、グレコの建築家、雄弁家としての側面を示した。それはアントニオ・パロミーノによる重要な著作『絵画芸術と視覚規範』の略伝「ドミニコ・グレコ 画家、彫刻家、建築家」に影響を及ぼしたと考えられる。つまり17世紀においてグレコは建築、彫刻にも優れた芸術家であったことが認識されていた。マリーアスはベラスケスが前述のパチェーコの訪問についていった可能性を指摘しているが、彼と弟子のルイス・トリスタン、息子のホルヘ・マヌエル以外の同時代、もしくは17世紀の画家にグレコの影響を見出すことはできない。その後18世紀も奇抜な画家としてのグレコ像は変わらなかった[31]1819年にプラド美術館が開館するが、当時グレコの作品は一点も所持されていなかった。今日プラドが所蔵する作品の大部分は、ラ・トリニダード美術館スペイン語版から移管されたもので、当時グレコはヴェネツィア派に分類される画家だった[32]

再評価運動[ソースを編集]

グレコが再評価されるようになったのはパブロ・ピカソの若き活躍の時代であり、モデルニスモの時代に該当する。グレコの作品はアカデミズムに対する反体制的勢力から、極めて前衛的な物として祭り上げられた。原因は1898年米西戦争が勃発しスペインが敗北したことである[33]。この結果今までアカデミズムとして組み立てられたスペインの栄光が去ったものとされ、スペインの栄光を再発見する必要に駆られた。そこでグレコはギリシア人であるがカトリックへの信心がある[注釈 8]と考えられ、ある種のステレオタイプが作られた。その結果彼の画風は狂気の沙汰という理由や乱視説[注釈 9]が謳われるようになった[35]。これらの誤った学説は1960年代以降の新発見で撤回された。 1960年代から1981年にかけてエル・グレコが自筆の注釈を施した書物が多く見つかっている。1983年にギリシアのシロス島から《聖母の眠り》がフルネームで署名されたイコンとして発見され、結果グレコの画業のルーツが証明された[36]。 2000年にはグレコがファルネーゼ家に突然の解雇に対する誓願が記された手紙が発表された[24]

代表作[ソースを編集]

エル・グレコの家[ソースを編集]

トレドにあるエル・グレコの家

グレコがトレドで暮らしていたとされる家を、20世紀に改装してできた美術館。グレコの住んでいた当時に合わせて台所、寝室、書斎、アトリエなどが復元されている。なお名称はグレコの家ということになってはいるが、実際に彼がどこに住んでいたかということはいまだ明確ではない[37]

脚注[ソースを編集]

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注釈[ソースを編集]

  1. ^ 1570年11月のアレッサンドロ枢機卿宛ての書簡でエル・グレコを「若いカンディア出身の画家でティツィアーノの弟子」と紹介、「落ち着くまで宮殿内の一室が提供されるよう」記されている[2]
  2. ^ mecenatというフランス語で、文化擁護やその支援を意味する。
  3. ^ サン・ルッカ美術アカデミーとも記されている。
  4. ^ vidaの後かpincelesの後のどちらに句点を置くかについては、2012年時点で不明確である[20]
  5. ^ 1580年代末期にグレコが書き込んだとされる[23]
  6. ^ グレコがウィトルウィウス建築書に書き込みを行ったのは、1590年代初頭と考えられている[23]
  7. ^ 古代の文献で文中の記述のみから芸術家が再現することをいう[25]
  8. ^ グレコは若いころギリシア正教に所属しており、後にローマ・カトリックに改宗したと考えられている[34]
  9. ^ グレゴリオ・マラニョン英語版という医師もこの説を支持した。

出典[ソースを編集]

  1. ^ 神吉, 1997、pp. 125-126.
  2. ^ a b c d e f g h i マリーアス, 2008, pp. 7-9.
  3. ^ Greco, 2012, p135. (第4章 近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として)
  4. ^ a b c d Panagiotakes, 2009, pp.1-12.
  5. ^ 大高, 松原, 2012, pp.6-7.
  6. ^ a b ハジニコラウ, 2012, p 170.
  7. ^ Constantoudaki, Blunt, 1975, pp.292-308.
  8. ^ a b 大高, 雪山, 1992, p 35.
  9. ^ Brill, Goya, Greco, 1993, p 34.
  10. ^ 大高, 松原, 2012, p 17.
  11. ^ Davies, 2003, p 82.
  12. ^ 大高, 松原, 2012, p 14.
  13. ^ ハジニコラウ, 2012, p 175.
  14. ^ サルヴァスタイル美術館
  15. ^ 大高, 雪山, 1992, p 34.
  16. ^ Greco, 2012, pp. 150-151.(第4章 近代芸術家エル・グレコの祭壇画:画家、建築家として)
  17. ^ a b ハジニコラウ, 2012, p 177.
  18. ^ Berg, 2009.
  19. ^ 大高, 松原, 2012, p 6.
  20. ^ Greco, 2012, p 9.
  21. ^ 文芸ジャンキー・パラダイス
  22. ^ 大高, 松原, 2012, p 16.
  23. ^ a b 岡田, 2013, p 51.
  24. ^ a b マリーアス, 2012, p 8.
  25. ^ a b 越川, 2013, p 29.
  26. ^ Greco, 1986, p 14.
  27. ^ 西武美術館, 1985, p 142.
  28. ^ Panagiotakes, 2009, p 56.
  29. ^ the Frick Collection
  30. ^ 諸星, 2012
  31. ^ a b 大高, 2013, p 1.
  32. ^ 大高, 2013, p 4.
  33. ^ 孝岡, 2006 p 75.
  34. ^ マリーアス, 2012, p 10.
  35. ^ 瀬戸, 1958, pp.47-49.
  36. ^ 大高, 松原, 2012, p 6.
  37. ^ 岡村, 1995.

参考資料[ソースを編集]

文献[ソースを編集]

  • Camón Aznar, José (1950), Dominico Greco / José Camón Aznar, Madrid: Espasa-Calpe, NCID 100001130825 
  • Constantoudaki, Marie; Blunt, Anthony (1975), Domenicos Theotocopoulos (El Greco) de Candie a Venise: Dicuments inédits (1566-1568), Benetia: Hellenikon Institouton Benetia, OCLC 431320480 
  • Davies, David; Elliott, John; Finaldi, Gabriele (2003), El Greco, London: National Gallery, ISBN 978-1-85709-933-1 
  • Panagiotakes, Nikolaos M.; Beaton, Roderick; Davis, John C.; Hadjinicolaou, Nicos (2009), El Greco – The Cretan Years, The Center for Hellenic Studies, Kings College London, Farnham, UK: Ashgate, ISBN 978-0-7546-6897-8 

ウェブページ[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]