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松富久亭松竹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
笑福亭松竹から転送)

松富久亭/笑福亭 松竹(しょうふくてい しょちく)は、上方落語名跡笑福亭一門の祖である。4代目の死後は、空き名跡となっている。初代のみ「松富久亭」で、2代目以降から「笑福亭」となるが、便宜上この項で一括して扱う。また、読み方違いの同字の名前「松竹まったけ」に関しても、同様に便宜上この項で一括して扱う。

五枚笹は、笑福亭一門定紋である。

大阪では母音を省略するのが一般的で、この松竹も「しょうちく」ではなく「しょちく」と読むのが正式な読み方である。


4代目 笑福亭しょうふくてい 松竹しょちく
本名 瀬尾 伝治郎
生年月日 1892年
没年月日 不詳年
出身地 日本の旗 日本
師匠 笑福亭松翁
名跡 1. 初代笑福亭鶴光
(? - 1930年)
2. 4代目笑福亭松竹
(1930年 - 1950年代頃)
活動内容 上方落語
所属 吉本興業

4代目 笑福亭 松竹1892年 - 没年不詳・昭和中期[要出典])は、上方落語の落語家。本名:瀬尾 伝治郎(昌平の諸説あり)。[要出典]享年不詳。

経歴

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4代目笑福亭松鶴の門下で、「初代笑福亭鶴光」を名乗る。後に所属の吉本興業を離れ、地道に活動を続ける。1930年に「4代目笑福亭松竹」を襲名。その後はラジオに時々出演するのみで、活動実態はほとんどなかった模様である。[要出典]

5代目笑福亭松鶴主催の「楽語荘」が始まると、真っ先に参加した。戦時中は木炭商を営む一方、慰問団の結成や、陸軍病院の巡回などの活動により、表彰されている。[要出典]

戦後も、1950年頃までは特別な会に時々出ては、珍しいネタ『十日戎』『大和橋』などをやっていたという。特に『宿屋仇』を得意としていた。[要出典]

『古今東西落語家事典』の「索引小事典」には、生没年・本名とも未詳で「(4代目)松鶴門下で松竹を名乗った。楽語荘同人。」としか記されていない[6]

脚注

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  1. ^ a b c 古今東西落語家事典 1989, pp. 255–256, 上方篇 二、幕末の群雄(初代松富久亭松竹の項).
  2. ^ 古今東西落語家事典 1989, pp. 25–256, 上方篇 二、幕末の群雄(初代松富久亭松竹の項).
  3. ^ 古今東西落語家事典 1989, pp. 267–268, 上方篇 三、桂派と三友派(二代目曽呂利新左衛門の項).
  4. ^ 古今東西落語家事典 1989, pp. 290–291, 上方篇 四、諸派乱立の時代(四代目笑福亭松鶴の項).
  5. ^ a b c d 古今東西落語家事典 1989, p. 393, 索引小事典―上方.
  6. ^ 古今東西落語家辞典 1989, p. 401, 索引小事典―上方.

参考文献

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  • 月亭春松 編『落語系圖』植松秀一郎(自費出版・春松の本名)、929年。NDLJP:1194413 
  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X 
  • 『ご存じ古今東西落語家紳士録』(CD-ROM)、APP、2005年

関連項目

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