福永喜助 (実業家)

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福永 喜助(ふくなが きすけ、明治19年(1886年) - 昭和44年(1969年6月10日))は、明治時代から昭和中期の実業家。幕末期の長州藩主戦派の重臣福永喜助喬久の三男。

生涯[編集]

長男、次男とも家督を継ぐ人格とあらずとした福永喜助(喬久)であったが、60歳を超え生まれた男子を今後の家の跡継ぎ素養を兼ね備えるよう、自身の名前である喜助を与え祈願したと言われている。

しかし、本妻の子供でないということもあり、大学進学の上京と共に生家とは絶縁状態となる。中央大学卒業後、広島県管内の警察官僚を経て、山口県防府市で弁護士、発明家となり、塩田政策を推進した。第二次世界大戦後は、戦犯として公職追放となるが、実業家として北海道からの海産物運輸業、日本専売公社防府の運営計画の考案、計画を実施する。防府市進駐の米軍と塩田の跡地計画と中関港の将来を立案し、米軍との調整を実施したが、かなわず断念した。

末裔は現在、山口県周南市、[兵庫県西宮市に在住している。

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