石河光晃

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石河光晃
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 文化9年11月15日1812年12月18日
死没 明治14年(1881年1月4日
別名 太八郎(通称)→佐渡
官位 従五位下、佐渡
主君 徳川慶恕茂徳義宜慶勝
尾張藩家老
氏族 石河氏
父母 父:石河光美
正室:説(本多忠升の四女)
継室:鏗(青木一貞の五女)
継室:條(加島三郎左衛門の次女)
光煕、晃宝
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石河 光晃(いしこ みつあき)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第10代当主。

略歴[編集]

嘉永6年(1853年)、父光美の隠居により家督を相続。家老職を仰せつかる。安政4年(1857年)、従五位下佐渡守に叙任されていたが、明治元年に位記・口宣案を返上し[1]、以降、佐渡・大八郎を称した[1]

維新後は士族だったが、明治3年(1870年)から華族編入請願運動を熱心に行うようになり、石河家が1万石以上を有していたことを理由に7回に及んで請願を行ったが、彼の存命中には万石以上陪臣の叙爵は行われておらず、請願は全て不許可に終わっている[1]

明治14年(1881年)1月4日死去[1]

参考文献[編集]

  • 『名古屋市史』
  • 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724 
  1. ^ a b c d 松田敬之 2015, p. 95.