相良頼喬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
相良 頼喬
Sagara Yoritaka.jpg
相良頼喬像(相良神社蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 寛永18年5月25日1641年7月3日
死没 元禄16年1月24日1703年3月11日
改名 長次郎丸(幼名)、長武(初名)、頼喬
戒名 天鬢院殿俊翁含英
墓所 東京都江東区白河霊巌寺
熊本県人吉市の願成寺
官位 従五位下、遠江
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
肥後人吉藩
氏族 相良氏
父母 父:相良頼寛、母:片岡正秀の娘
兄弟 於積(相良頼福継室)、頼喬頼利
正室於亀相良長秀の娘:春晴院)
継室月仙院鷲尾隆量の娘)
側室西氏の娘
頼泰頼真、式部、於仙、万吉、又四郎
養子頼福

相良 頼喬(さがら よりたか)は、肥後人吉藩の第3代藩主。

生涯[編集]

寛永18年(1641年)5月25日、第2代藩主・相良頼寛の長男として生まれる。寛文4年(1664年)閏5月7日、父の隠居により家督を継ぐ。藩政では土木工事に尽力した。寛文2年(1662年)より、藩士の林正盛が頼喬の許可を得て、自費で球磨川を開削。寛文5年(1665年)完成し、下流の八代まで船での行き来が可能となり、領内の発展に大きく貢献した。

貞享4年(1687年)、真宗信者の男女14人が川辺川(球磨川支流)に入水自殺するという事件が起きた[1]。人吉藩は、薩摩藩と共に真宗の信仰を禁止していた。ところが密告により信仰が発覚し、頼喬が捕り手を向かわせる前に集団自殺を図った事件である。

元禄16年(1703年)1月24日に死去した。享年63。5人の男児は早世していたため、従弟で正室・於亀の兄弟でもある頼福が養子となり跡を継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 国土交通省九州地方整備局 す・き・で・す 球磨川 真宗弾圧 - 国立国会図書館によるウェブアーカイブより