相良頼徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
相良 頼徳
Sagara Yorinori.jpg
相良頼徳像(相良神社蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永3年5月16日1774年6月24日
死没 安政3年10月1日1856年10月29日
改名 英次郎(幼名)、武之進、左京
別名 頼徳
諡号 島入、繊月
戒名 寂淳院殿繊月雅遊大居士
墓所 熊本県人吉市の願成寺
官位 従五位下、志摩守、紀伊守、対馬
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
肥後人吉藩
氏族 相良氏
父母 父:相良長寛、母:浜崎名美恵(観智院)
兄弟 於愛、頼徳義休頼匡、於登那(米良則順室)、於慶(溝口直侯室)、大島義徳、於盈、万江頼順、於基、戸川達義、於盛
正室松平頼謙の次女・於津
於蓮、於幸、頼之、於雅(竹中重英室)、於益(相良頼為室)、頼由頼直万江頼保、於葉、於源
テンプレートを表示

相良 頼徳(さがら よりのり)は、肥後人吉藩の第12代藩主。

生涯[編集]

安永3年(1774年)5月16日、第11代藩主・相良長寛の長男(庶長子)として生まれる。はじめ世子は嫡子(正室の子で次男)の義休と決まっていたが、義休は寛政4年(1792年)9月25日に江戸にて乱心し、樅木九郎兵衛を斬り殺害したため(樅木は事件の二日後に死去)、寛政5年(1793年)1月28日に廃嫡され(系図には病のためと記されている)、代わって頼徳が世子に指名された。寛政6年(1794年)12月16日に従五位下、志摩守に叙任する。享和2年(1802年)2月5日、父の隠居により家督を継ぐ。

藩政においては、藩財政再建を目指して田代政典を家老に登用し、文化4年(1807年)に五人組制度の再建、文化8年(1811年)には検地による年貢増収、そのほかにも新田開発、専売などを行なった。

文政元年(1818年)10月6日、長男・頼之に家督を譲って隠居し、安政3年(1856年)10月1日に死去した。享年83。