申胤

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申 胤(しん いん、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。魏郡魏県の出身。父は後趙司空申鍾。兄に同じく前燕に仕えた申紹がいる。

生涯[編集]

父の申鍾は後趙・冉魏において高官を歴任していたが、352年に前燕の輔弼将軍慕容評に敗れて捕らえられると、以降は前燕に仕えた。

申胤もまた前燕に仕え、始め給事黄門侍郎に任じられた。

355年5月、前燕皇帝慕容儁へ上言し、前燕における朝廷の儀礼制度や冠冕の様式が未だ定まっていないことから、詳しく制定するよう訴えた[1]

やがて司徒左長史に移った。

369年7月、東晋大司馬桓温が前燕征伐の兵を興すと、下邳王慕容厲・楽安王慕容臧らは相次いで迎撃に出るも尽く敗戦を喫し、枋頭まで進出を許してしまった。その為、呉王慕容垂が総大将となって5万の兵でこれを迎え撃つと、申胤は彼の上表により参軍従事に任じられ、黄門侍郎封孚・尚書郎悉羅騰と共に討伐軍に従軍した。

行軍の途上、封孚は申胤へ「温の兵は強く整っており、流れに乗じて直進している。今、大軍は高岸でいたずらに逡巡しており、交戦させようとしていない。克殄の理は見られず、これはどういうことであろうか」と問うた。これに申胤は「温の今の気勢をもって、(今回の征伐を)成し遂げる事が出来るように思われるが、我が見たところ必ずや成し得ないであろう。どうしてか。今、晋室は衰弱し、温がその国を専制している。晋の朝臣は必ずしもみな心を同じくしているわけではない。故に、温がその志を果たす事を衆は望んでおらず、事が敗れるために必ずや背反しようとするであろう。また、温は驕りながらも頼みとするのはその衆であり、彼らが変事に応じる事を恐れている。積極的に攻めることを疎んじている。大衆は深入りしており、隙に乗じるべき時なのに、逆に中流辺りで逍遙(うろうろ)としている。これは出撃せずして利を得んと持久を望み、座して全勝を取らんとしているのだ。もし兵糧が至らなければその勢いは屈し、必ずや戦わずして敗れるであろう。これこそ自然の定めであろう」と答えた。

前燕軍は桓温軍の侵攻を阻むと共に、糧道を断つ事でその鋭気を削ぐと、果たして桓温は9月には軍を総退却させた。

その後、司徒長史に任じられた。

370年6月、前秦君主苻堅は輔国将軍王猛を総大将に任じ、楊安張蚝鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与え、前燕征伐を敢行した。

8月、黄門侍郎封孚は申胤へ「事はどう進むであろうか」と問うと、申胤は嘆息して「は必ずや亡び、我らは今年にも秦虜(前秦の捕虜)となろう。しかしながら、かつては歳(木星)を得て、はこれを伐った事でその禍を受けて滅んだのだ。今、その福徳は燕にある。秦は志を果たすといえども、一紀(12年)も過ぎずして燕は復建するであろう」と答えたとという。

その後の事績は明らかになっていない。

脚注[編集]

  1. ^ 「夫名尊禮重,先王之制。冠冕之式,代或不同。漢以蕭、曹之功,有殊群辟,故剣履上殿,入朝不趨。世無其功,則禮宜闕也。至於東宮,體此為儀,魏、晋因循,制不納舄。今皇儲過謙,準同百僚,禮卑逼下,有違朝式。太子有統天之重,而與諸王斉冠遠遊,非所以辨章貴賤也。祭饗朝慶,宜正服袞衣九文,冠冕九旒。又仲冬長至,太陰数終,黄鐘産氣,綿微於下,此月閉關息旅,後不省方。《禮記》曰:「是月也,事欲静,君子斉戒去聲色」。唯《周官》有天子之南郊従八能之説。或以有事至霊,非朝饗之節,故有楽作之理。王者慎微,禮従其重。前来二至闕鼓,不宜有設,今之鏗鏘,蓋以常儀。二至之禮、事殊餘節,猥動金聲,驚越神気,施之宣養,實為未盡。又朝服雖是古禮,絳褠始于秦、漢,迄於今代,遂相仍準。朔望正旦,乃具袞舄。禮,諸侯旅見天子,不得終事者三,雨沾服失容,其在一焉。今或朝日天雨,未有定儀。禮貴適時,不在過恭。近以地湿不得納舄,而以袞襈改履。案言稱朝服,所以服之而朝,一體之間,上下二制,或廢或存,實乖禮意。大燕受命,侔蹤虞、夏,諸所施行,宜損益定之,以為皇代永制」

参考文献[編集]