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田鎖城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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田鎖城
岩手県
城郭構造 平山城
築城主 田鎖氏
築城年 永和年間(1375年-1379年)?
主な城主 田鎖氏
廃城年 天正20年(1592年
遺構 曲輪
指定文化財 史跡等未指定[1]
位置 北緯39度37分33.8秒 東経141度53分26.0秒 / 北緯39.626056度 東経141.890556度 / 39.626056; 141.890556座標: 北緯39度37分33.8秒 東経141度53分26.0秒 / 北緯39.626056度 東経141.890556度 / 39.626056; 141.890556
地図
田鎖城の位置(岩手県内)
田鎖城
田鎖城
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田鎖城(たくさりじょう)は、岩手県宮古市にあった日本の城平山城)。

概要

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当城は、閉伊郡田鎖村の閉伊川南岸、田鎖山塊の先端にあり、主郭・二の郭・物見櫓・大手口・空堀などが残る。

歴史・沿革

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閉伊一族田鎖氏(多久佐利氏)を名乗るようになったされる南北朝期永和年間(1375年-1379年)といわれ、中根城から移ってきて居城となった。

室町戦国期の閉伊一族・家臣は閉伊川沿岸地域に分散して、閉伊源氏と称され、室町末期にその一族の本宗と称するのは田鎖城に在城しているが、その本末は判明しない。

閉伊氏の後流と称するものには、田鎖・刈屋・和井内・茂市・長沢・花輪・高浜・箱石・ 根市・中村・赤前・重茂・大沢・蟇目・田代・山崎・荒川・近内・小山田・江刈内・今岸・箱石・大川等の諸氏があり、それぞれ閉伊郡内の地名を名字とするものが多く、一族的な結束を保ち田鎖党・田鎖十三家などと称されていたが、南部氏の圧力が次第に強まり、その傘下に属するに至った。

天正19年(1591年)、九戸政実の乱のときに桜庭安房の説得にもかかわらず、対岸の千徳氏などと共にいずれの味方もせずに静観の態度をとり続けたが、朝鮮の役で千徳氏などと九州名護屋へ出陣の留守の間に南部氏によって田鎖城は千徳城とともに取り壊され、天正20年(1592年)の「諸城破却令」書上には「田鎖 山城破 佐々木十郎左衛門 持分 唐之供 留守兵庫」とのみ記されている。

脚注

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  1. ^ 「宮古の文化財」宮古市公式HP

参考資料

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  • 『岩手県史 第三巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 

関連項目

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