田中吉官

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田中吉官
時代 江戸時代前期
生誕 文禄2年(1593年
死没 明暦4年1月9日1658年2月11日
改名 菅沼定行(初名)→定官→田中吉官
別名 翁助(通称)
戒名 殿雪
墓所 東京都新宿区舟町の全勝寺
官位 従五位下、主殿
幕府 江戸幕府
氏族 菅沼氏田中氏
父母 父:菅沼定盈 母:普厳院(松平家次の娘)
養父:田中吉興
兄弟 菅沼定仍菅沼定成菅沼定芳菅沼定武吉官
正室:田中吉興の娘
定格
養子:定房

田中 吉官(たなか よしすけ)は、江戸時代前期の大名旗本菅沼定盈の八男。

生涯[編集]

田中家相続[編集]

徳川秀忠の近衆となり、大坂の陣へも出陣し、秀忠の麾下で軍功を挙げた。

元和8年(1622年)8月、秀忠の命により嗣子が居なかった筑後柳河藩の支流の田中吉興の娘婿となり、定官(さだすけ)から吉官と改名。家督を相続し近江国野洲郡、三河国田原、上野国新田等2万石を領する。翌月小姓頭に昇進した。

改易・赦免[編集]

小姓頭在任中の元和9年9月18日1623年11月10日)に、小姓組の同輩・三宅藤五郎が罪を犯して処罰されると、組頭として連帯責任を負い、除封となった。

2年後の寛永2年(1625年)に赦免されると、蔵米2000俵を給され御書院番として起用される。のちに大番頭と、累進を重ねた。この際に蔵米を改め、上総国周准郡天羽郡安房国朝夷郡の3郡において3000石を加増されて、都合5000石を知行することとなった。

明暦4年(1658年)1月9日没、享年59。

系譜[編集]

当初は子宝に恵まれず、生家・菅沼家から六兄・定芳の三男である定房(監物)を養子に迎えた。ところが寛永12年7月4日1635年8月16日)、その定房が10歳で病死した(法名は幼玉沙弥)。

のちに授かった実子からは、田中氏が代々用いてきた「吉」ではなく生家・菅沼氏の「定」に復し、嫡子には定格(さだただ)と名乗らせた。

田中家は定格の代で2000石を加増され、7000石を知行。その後を嫡男の定賢(従五位下出羽守)が相続した。

しかし、元禄15年(1702年)、定賢の子・定安が狂気により改易となり、同族の定堅が名跡を相続し、子孫は500俵の旗本として存続した。