甘崎城

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甘崎城
愛媛県
道の駅今治市多々羅しまなみ公園から望む甘崎城(中央の小さな島)。後ろは伯方島
道の駅今治市多々羅しまなみ公園から望む甘崎城(中央の小さな島)。後ろは伯方島
別名 天崎城
城郭構造 海城[1]
天守構造 不明
築城主 越智氏
築城年 天智天皇10年(671年)?(諸説あり)
主な改修者 藤堂高虎
主な城主 越智氏今岡氏村上氏村上通康藤堂氏
廃城年 慶長13年(1608年
遺構 石垣、曲輪、柱穴
指定文化財 愛媛県指定史跡
位置 愛媛県今治市上浦町甘崎北緯34度14分41秒 東経133度03分23秒 / 北緯34.244627度 東経133.056526度 / 34.244627; 133.056526座標: 北緯34度14分41秒 東経133度03分23秒 / 北緯34.244627度 東経133.056526度 / 34.244627; 133.056526
地図
甘崎城の位置(愛媛県内)
甘崎城
甘崎城

甘崎城(あまざきじょう)は、愛媛県今治市上浦町甘崎の古城島にあった日本の城海城[1])。別名を、古城、岸の城、荒神城[2]。愛媛県指定史跡[3]

概要[編集]

越智氏によって築かれた日本最古の水軍城とされ、伊予国大三島東端である瀬戸甘崎の海上に位置する島城であり、村上水軍の拠点の一つ。

歴史[編集]

古代では大山祇神社の東方鎮護として機能した島だが、古名は「アマノサキ」で、アマは海人を、サキは防人の意を指し、鎌倉期に海人(海武士)を取り締まるために城砦が築かれた(海武士から警護する)ことから始まり、由来はそこからきている。

13世紀元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行を徴収する拠点に至る。この税を生活の糧とした。

海賊停止令が出た後の17世紀末にも当城はドイツ人に記録され、認知されるに至っている(後述の「海中縄張り」を参照)。

歴代城主は、三島村上水軍時代では、来島村上氏の4代村上通康、その後を家臣の村上吉継16世紀前半)、豊臣秀吉が瀬戸内海の覇権を握ると藤堂高虎の属城となり、その従弟・良勝が城主となる[4]。慶長13年(1608年)の藤堂高虎の移封によって廃城となった。

海中縄張り[編集]

当城の最大の特徴として、陸繋島という地理上から潮が引くと島に至るまでの陸路ができ、幾重にも石垣が築かれているが、満潮時には没し、海中縄張りとなった。従って、潮が干した時のみ役割を担う石垣(時刻によって陸路が形成された時の備えとしての防御)である。この珍しい光景から、元禄4年(1691年)、この沖を航行したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが帰国後に『日本誌』において、「水中よりそびゆる保塁あり」と記述を残すこととなる。

城がある古城島が、干潮時に160メートル離れた大三島と陸続きになることは「海割れ」と呼ばれるが、その頻度は年数回のみとされる。石垣は廃城となった後に多くが持ち去られ、基礎部分のみが残るだけの部分が多い。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 甘崎城は柴田龍司氏の海城の立地による分類では小島型になる(柴田2008、7頁)。
  2. ^ 『戦国最強の水軍 村上一族のすべて』『歴史読本』編集部 編 新人物文庫 2014年 ISBN 978-4-04-600264-8 p.231
  3. ^ 「上浦地域の文化財」今治市公式HP
  4. ^ 『村上水軍全紀行』 2009年 p.204
  5. ^ 柴田2008、13頁

参考文献[編集]

  • 柴田龍司「海城の様相と変遷」『中世城郭研究』第22号、2008年、 4-30頁、 ISSN 0914-3203第24回全国城郭研究者セミナー テーマ『海城について』(2007年8月5日開催)における同タイトルの報告を論考にしたもの。
  • 森本繁 『村上水軍全紀行』 新人物往来社 2009年 ISBN 978-4-404-03577-6 pp.54 - 55
  • 『戦国最強の水軍 村上一族のすべて』 『歴史読本』編集部 編 新人物文庫 2014年 ISBN 978-4-04-600264-8 p.231