瑞泉寺 (京都市)
瑞泉寺 | |
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所在地 | 京都府京都市中京区木屋町三条下ル石屋町114-1 |
位置 | 北緯35度0分31秒 東経135度46分15.2秒 / 北緯35.00861度 東経135.770889度 |
山号 | 慈舟山 |
宗旨 | 浄土宗 |
宗派 | 浄土宗西山禅林寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 慶長16年(1611年) |
開基 | 立空桂叔 |
公式HP | 慈舟山瑞泉寺 |
法人番号 |
7130005000513 ![]() |
瑞泉寺(ずいせんじ)は、京都府京都市中京区木屋町通三条下ル石屋町にある浄土宗西山禅林寺派の寺院である。山号は慈舟山。
概要[編集]
桃山時代ここは三条河原の中洲であった。慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以によって高瀬川を開く工事が行われているときに、偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595年)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、前年の慶長15年(1610年)に死去していた。
慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立した。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。
秀次供養塔[編集]
文禄4年(1595年)7月、秀次は叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放された。7月15日(8月20日)、賜死を命じられた秀次は切腹した。山本主殿、山田三十郎、不破伴作など家臣5人もまた殉死した。秀吉は伏見で首実検し、8月2日(9月5日)、秀次の首は三条河原で梟首(キュウシュ。さらし首)されることになるが、その時に秀次の妻妾、幼児などを合わせて30余人が打首とされた。遺体は秀次の首とともに河原に埋められ、塚、石塔が建てられて(石櫃に)「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたという。この首塚と墓は、殺生塚、関白塚、摂政塚、畜生塚などと称され、かえりみる者は無かったが、慶順という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔った。
慶順の死後、洪水で塚が荒れ、角倉了以が石櫃を発見したのは前述の通りである。了以はその際に石塔(石櫃)の「秀次悪逆」の4文字を削り、その上に6角形の無縁塔を建てた。このような経緯から秀次供養塔は「秀次悪逆塚」とも言うが、現在も碑銘の削られた姿で残る。
墓所[編集]
- 豊臣秀次 墓石(かつて秀次の首が入れられた石櫃)
- 秀次の幼児、妻妾たち39人、賜死した家臣10人の五輪の塔(五輪卒塔婆)
補足[編集]
豊臣秀次と母とも(智、法名日秀)の墓所は、善正寺にある。瑞泉寺は秀次の首塚の跡の供養と、その一族・家臣の墓所である。また三条河原で処刑された側室らは大雲院でも供養されたという記述があり、2014年、石材の一部が発見された[1]。
毎年命日の7月15日に、善正寺と瑞龍寺の住職により、かつて秀次の居城が置かれていた、滋賀県近江八幡市の八幡山で、秀次の供養が行われている。
寺宝[編集]
処刑者の辞世の和歌
交通[編集]
脚注[編集]
- ^ “非業の関白、豊臣秀次の供養塔 京都、ひそかに弔う?”. 京都新聞. (2014年8月22日) 2014年11月24日閲覧。
参考文献[編集]
- 瑞泉寺縁起より
- 山折哲雄、槇野修『京都の寺社505を歩く』PHP新書、平成19年(2007年) ISBN 978-4-569-69247-0