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  • 熊本藩のサムネイル
    細川氏入部以後の江戸藩邸(上屋敷)は、江戸城近くの大名小路に上屋敷があり、江戸期を通じて動いていない(ただし、江戸城の拡張に伴い面積の減少はある)。 伊皿子台(いさらごだい 現在の港区高輪及び白金)に中屋敷下屋敷と記載の資料もあり)があった。「細川家文書」では当初は下屋敷であったが、江戸の後期には中屋敷となっているようである。…
    30キロバイト (4,150 語) - 2024年7月22日 (月) 09:28
  • 大名のサムネイル
    大名華族 - 華族のうち、大名諸侯出身のもの。 大名屋敷 - 大名の屋敷。諸藩は江戸にそれぞれ何箇所かを有し、江戸城に近い本邸である上屋敷、世継ぎや隠居した前大名が住む中屋敷、災害時の仮宅・倉庫・大庭園・接待所といった機能を担う都心から離れた下屋敷が設けられた。 大名然 - 大名の様に鷹揚な様。 大名行列…
    6キロバイト (957 語) - 2023年12月6日 (水) 16:55
  • 茂森新町のサムネイル
    重盛御派町とあり、町家が44軒(弘前中惣屋敷絵図)。 天和2年 - 現在の町域、町並みを形成(国日記)。 享保4年頃 - 町家87と、津軽主膳の下屋敷2ヶ所があり、屋敷地内に14軒の屋敷がある。この下屋敷付近に制札所があり、城下南西の入口として枡形が築かれた(町屋数円)。 寛政12年 - 北側が漆畑で、町家123(分間弘前大絵図)。…
    6キロバイト (533 語) - 2024年3月4日 (月) 14:55
  • 東大井のサムネイル
    江戸時代には土佐藩の下屋敷の他にも現在の東大井四丁目に仙台藩と越前鯖江藩の下屋敷が、東大井六丁目に薩摩藩の抱屋敷があった。仙台藩の下屋敷(現在の仙台坂トンネルの南側)では藩士のために仙台味噌が生産され、2017年現在も下屋敷跡の「仙台味噌醸造所」で生産・販売が行われている。…
    18キロバイト (1,529 語) - 2024年1月12日 (金) 04:39
  • 小浜藩のサムネイル
    ^ 吉田喜久雄「若狭小浜藩酒井家江戸上屋敷」 ^ 現地史跡説明に「寛永5年(1628年)酒井讃岐守は、徳川家光からこの地を拝領して下屋敷とした」とある。 ^ 「、右内匠頭様御屋敷ハ御近所戸沢上総介殿御預ヶ其後酒井靭負佐殿屋舗御拝領之」(『大垣藩戸田氏播州赤穂一巻覚書』)…
    10キロバイト (1,617 語) - 2024年6月22日 (土) 14:28
  • 久保田藩のサムネイル
    宝永年間当時は上屋敷が下谷七軒町(現在の台東区台東、佐竹商店街周辺)、中屋敷が鳥越、下屋敷が深川にあった。また、梅田(現在の足立区梅田六丁目)に抱屋敷を持った。 幕末には下谷七軒町に上屋敷、神田佐久間町と本所十間川に中屋敷が、鳥越、本所中之郷、日暮里に下屋敷があった。また、大坂布屋町に大坂藩邸、京都柳馬場通四条上ルに京都藩邸を持つ。…
    36キロバイト (5,752 語) - 2024年7月3日 (水) 15:09
  • 本駒込のサムネイル
    東京都 > 文京区 > 本駒込 本駒込(ほんこまごめ) は、東京都文京区の町名。現行行政地名は本駒込丁目から本駒込六丁目。郵便番号は113-0021。 本駒込は文京区の北側に位置し、江戸時代諸藩の下屋敷や武家屋敷が置かれたことから、明治以降に政官財界人の邸宅が立つ地域となった。このため、今でも山手線内の…
    15キロバイト (1,635 語) - 2023年11月24日 (金) 07:57
  • 寛政11年(1799年)には大坂天満宮に談林派の祖西山宗因の句碑を建設している。 江戸・深川の尼崎藩下屋敷は、元禄11年(1697年)に当時飯山藩主であった松平忠喬の屋敷となって以来桜井松平家が所有していたが、その敷地はかつて松尾芭蕉が住した芭蕉庵(深川元番所の「第二次深川芭蕉庵」)…
    12キロバイト (1,303 語) - 2024年3月6日 (水) 11:04
  • 目白台のサムネイル
    丁目から目白台三丁目。郵便番号は112-0015。 文京区西部地域であり、北に豊島区雑司ヶ谷、南に関口、西は豊島区高田、東は大塚・音羽に接する。公園や緑が多い地域である。高台の閑静な文教地区であり、また古くは大名屋敷であった。現在の東大病院分院跡地は松平出羽守の下屋敷
    10キロバイト (1,008 語) - 2024年7月26日 (金) 08:08
  • 青山 (東京都港区)のサムネイル
    1613年)の広大な下屋敷(現在における別荘に該当)が置かれたことにちなみ、この付近一帯の町名に青山を冠した(赤坂青山○○町)ことが地名の起こりである。江戸時代中期までに幾度かの配置転換を繰り返した後、青山通りを挟んで北面に宗家の篠山藩の下屋敷や、現在の赤坂御用地の画に中屋敷があった。南面には分家の屋敷が点在し、旗本屋敷や郡上藩の下屋敷があった。…
    33キロバイト (3,919 語) - 2024年6月18日 (火) 23:54
  • 上白銀町のサムネイル
    屋敷地になると同時に、さやし町から上白銀町となる。 寛文13年 - 武家屋敷8軒の他に、西端に重臣津軽玄蕃の下屋敷と町年寄松山家の屋敷(弘前中惣屋敷絵図)。 享和3年 - 東から重臣西館宇膳・津軽頼母・高倉五兵衛の屋敷地となる(御家中町割) 明治初年 -…
    6キロバイト (576 語) - 2024年3月20日 (水) 22:38
  • に新設された下屋敷(大崎袖ヶ崎屋敷)にて、悪さを繰り返して討たれたという大猫の怪異譚である。 只野真葛が文化8年(1811年)に刊行した回想記『むかしばなし』の巻1に掲載されている。只野真葛の祖父・丈庵(工藤安世)が獅山公(陸奥仙台藩第5代藩主・伊達氏宗家第21代当主・伊達吉村)の隠居屋敷(仙台藩下屋敷
    11キロバイト (1,750 語) - 2024年7月23日 (火) 20:32
  • 尾張藩のサムネイル
    中屋敷【麹町屋敷】は、江戸城外堀の四谷門内(現東京都千代田区麹町)に拝領した屋敷。総坪数1万7870坪余あった。幕末を迎え、明治2年(1869年)に政府に接収された。 下屋敷【戸山屋敷】は、和田戸山(現新宿区戸山〉にあり避災邸と休息用の別邸を兼ねた下屋敷として整備された。 蔵屋敷は、江戸初期南八丁堀にあったが明暦の大火のあと築地地区の埋立地に移転された。…
    53キロバイト (8,039 語) - 2024年7月28日 (日) 01:31
  • 外神田のサムネイル
    - 東隣の武家地(通称新屋敷)を編入 神田松富町 - 通り沿い5軒の武家地を編入 神田末広町 - 越後村松藩堀家上屋敷、その他武家地を編入 神田五軒町 - 信濃上田藩藤井家下屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、上総久留里藩黒田家上屋敷が合併 神田台所町 - 西隣の武家地を編入…
    14キロバイト (1,542 語) - 2024年6月21日 (金) 10:38
  • 南部利義のサムネイル
    り安政元年(1854年)2月23日に父の利済も同じ江戸下屋敷での蟄居を命じられている。 隠居後の利義は粗暴な行為が多く、安政2年(1855年)に老中・阿部正弘の命により下屋敷の一室に押込めとなった。同年4月14日(1855年5月29日)、下屋敷にて父の利済が死去する。…
    6キロバイト (780 語) - 2024年6月19日 (水) 04:51
  • 田辺市のサムネイル
    屋敷一~三丁目、新屋敷、中屋敷下屋敷、片町、本町、紺屋町、福路町、栄町、今福町、南新町、北新町、高雄~三丁目、湊、扇ヶ浜、末広町、磯間、東陽、神子浜・二丁目、文里・二丁目、学園、東山・二丁目、宝来町、あけぼの、朝日ヶ丘、南新万、新万、新庄町、神島台、たきない町、江川、古尾、上の山
    41キロバイト (4,317 語) - 2024年6月20日 (木) 16:00
  • 東原(509-599)、佃(600-718)、御伊勢(719-797)、中袋(798-853)、山前(854-909)、小山(910-1034)、下屋敷(神田上水佃橋が所在。1035-1210)、正用(しょうえい)下(1211-1344)、池袋(1345-1559)、堂ノ下(1560-1753)、…
    8キロバイト (686 語) - 2023年4月5日 (水) 08:17
  • 檜町公園のサムネイル
    当地は江戸時代は長州藩・松平大膳大夫(毛利家)の下屋敷があったところで庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつとして知られていた。また周りに檜の木が多かったことから毛利家の屋敷は「檜屋敷」とも呼ばれ、後の「檜町」という地名の由来にもなった(公園の名もこれに由来する)。 明治時代になり毛利家の屋敷一
    6キロバイト (750 語) - 2023年11月26日 (日) 04:34
  • 田中城のサムネイル
    大手之門跡(2018年4月5日撮影) 三日月堀跡(2018年4月5日撮影) 二之堀(市指定史跡 2018年4月5日撮影) 大手二之門跡(2018年4月5日撮影) 三日月馬出曲輪(2018年4月5日撮影) 4棟の関連建造物(田中城本丸櫓、長楽寺村郷蔵、茶室、仲間部屋・厩)が「史跡田中城下屋敷」に移築現存する。…
    9キロバイト (1,164 語) - 2024年2月26日 (月) 05:30
  • 本多町 (金沢市)のサムネイル
    ている。また、本多町一丁目から二丁目は戦災を免れた袋小路状の路地が現在も残されている。 本多町は、加賀藩老臣である本多安房守政重の下屋敷があった地に由来する。現在、下屋敷の一部は北陸放送裏の松風閣庭園に残されている。 1889年(明治22年)に金沢市が市制施行してからは金沢市の町名として採用されたが…
    10キロバイト (729 語) - 2024年7月10日 (水) 15:08
  • の為に、日用人足余多江戸へ被召寄、同三年の秋より、神田の下屋敷に御普請被仰付。加州の下屋敷とて神田に先年より御拝領にてありけれ共、前は本郷の町をさかひ、後は不忍の池をさかひ、草茫々たる小笹原に谷嶺も有之て、所々に番人又は下々の者のみ有之、屋敷の内まだらに茶園してぞ居たりける。先づ四方に塀を懸けさせ
  • 1924年、永井荷風「下谷叢話」 あたかもこの時江戸にあって大沼枕山は十月二十五日津山侯の隠居松平確堂が高田村の下屋敷に催した酒宴に陪して林泉の美を詠じている。 1928年、折口信夫「神道に現れた民族論理」 […]江家次第の類を見ると、まだ中臣女・物部女などの記載
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