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'''ブルボネー'''('''Bourbonnais''', [[オック語]]:''Borbonés / Barbonés'')は、[[フランス]]中央部の歴史的地域。現在の[[アリエ県]]と一致し、[[シェール県]]の一部も含む。中心地は[[ムーラン]]。'''ブルボネ'''の表記も見られる。
'''ブルボネー'''({{Lang-fr-short|Bourbonnais}}, [[オック語]]:''Borbonés / Barbonés'')は、[[フランス]]中央部の歴史的地域。現在の[[アリエ県]]と一致し、[[シェール県]]の一部も含む。中心地は[[ムーラン (アリエ県)|ムーラン]]。'''ブルボネ'''の表記も見られる。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
最初に知られた領主は、10世紀のアデマール(またはエイマール)である。はブルボン城(現在の[[ブルボン=ラルシャンボー]])を獲得し、それにちなんで家名を[[ブルボン家]]とした。
最初に知られた領主は、10世紀のアデマール(またはエイマール)である。アデマールはブルボン城(現在の[[ブルボン=ラルシャンボー]])を獲得し、それにちなんで家名を[[ブルボン家]]とした。


第1期のブルボン家は1200年にアルシャンボー7世の死によって断絶した。には一人娘のマオー(マティルダとも)・ド・ブルボンがおり、その夫ギ2世・ダンピエールはモンルコンをブルボン領主の所有とし、11世紀から12世紀の間にシェール川まで拡張した。
第1期のブルボン家は1200年にアルシャンボー7世の死によって断絶した。アルシャンボーには一人娘のマオー(マティルダとも)・ド・ブルボンがおり、その夫ギ2世・ダンピエールはモンルコンをブルボン領主の所有とし、11世紀から12世紀の間にシェール川まで拡張した。


第2期のブルボン家は、マオーとギ2世の子アルシャンボー8世によって1218年に始まる。弟は[[フランドル伯|フランドル女伯]]マルグリット2世と結婚したギヨーム2世・ダンピエールである。アルシャンボー8世の子アルシャンボー9世は、1249年に[[十字軍]]に参加し、[[キプロス]]で死去した。男子継承者のなかったブルボネーは[[ブルゴーニュ家]]へ渡った。
第2期のブルボン家は、マオーとギ2世の子アルシャンボー8世によって1218年に始まる。弟は[[フランドル伯|フランドル女伯]]マルグリット2世と結婚したギヨーム2世・ダンピエールである。アルシャンボー8世の子アルシャンボー9世は、1249年に[[十字軍]]に参加し、[[キプロス]]で死去した。男子継承者のなかったブルボネーは[[ブルゴーニュ家]]へ渡った。


1272年、ブルボネー領主ベアトリス・ド・ブルゴーニュ(アルシャンボー9世の娘アニェスと、ブルゴーニュ公[[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]の子ジャンを両親に持つ)は、フランス王子・[[ロベール (クレルモン伯)|クレルモン伯ロベール]]([[ルイ9世 (フランス王)|ルイ聖王]]の子)と結婚した。2人の間に生まれた[[ルイ1世 (ブルボン公)|ブルボン公ルイ1世]]が、長きにわたる、そして現在一般に[[ブルボン家]]として知られる家系の祖となった。[[ブルボン朝|フランスのブルボン朝]]は[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]によって始まり、1848年の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の退位まで続いた。
1272年、ブルボネー領主ベアトリス・ド・ブルゴーニュ(アルシャンボー9世の娘アニェスと、ブルゴーニュ公[[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]の子ジャンを両親に持つ)は、フランス王子・[[ロベール (クレルモン伯)|クレルモン伯ロベール]]([[ルイ9世 (フランス王)|聖王ルイ9世]]の子)と結婚した。2人の間に生まれた[[ルイ1世 (ブルボン公)|ブルボン公ルイ1世]]が、長きにわたる、そして現在一般に[[ブルボン家]]として知られる家系の祖となった。[[ブルボン朝|フランスのブルボン朝]]は[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]によって始まり、1848年の[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の退位まで続いた。


ブルボン家は王家の構成員との同盟関係を結んでいた。彼らは王の奉仕として自軍を派遣し、ブルボネーの地理的位置から恩恵を得ていた(ブルボネーは王領と[[アキテーヌ]]公領、[[オーヴェルニュ]]の間に位置していた)。ベアトリスとクレルモン伯の結婚同様この同盟関係は、地域の地位向上と繁栄を助けた。1327年、当時の王[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]によって、ブルボン家は公爵位を授けられた。
ブルボン家は王家の構成員との同盟関係を結んでいた。彼らは王の奉仕として自軍を派遣し、ブルボネーの地理的位置から恩恵を得ていた(ブルボネーは王領と[[アキテーヌ]]公領、[[オーヴェルニュ]]の間に位置していた)。ベアトリスとクレルモン伯の結婚同様この同盟関係は、地域の地位向上と繁栄を助けた。1327年、当時の王[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]によって、ブルボン家は公爵位を授けられた。

2020年9月12日 (土) 12:45時点における版

ブルボネの位置
ブルボン家の旧紋章

ブルボネー: Bourbonnais, オック語Borbonés / Barbonés)は、フランス中央部の歴史的地域。現在のアリエ県と一致し、シェール県の一部も含む。中心地はムーランブルボネの表記も見られる。

歴史

最初に知られた領主は、10世紀のアデマール(またはエイマール)である。アデマールはブルボン城(現在のブルボン=ラルシャンボー)を獲得し、それにちなんで家名をブルボン家とした。

第1期のブルボン家は1200年にアルシャンボー7世の死によって断絶した。アルシャンボーには一人娘のマオー(マティルダとも)・ド・ブルボンがおり、その夫ギー2世・ダンピエールはモンルコンをブルボン領主の所有とし、11世紀から12世紀の間にシェール川まで拡張した。

第2期のブルボン家は、マオーとギー2世の子アルシャンボー8世によって1218年に始まる。弟はフランドル女伯マルグリット2世と結婚したギヨーム2世・ダンピエールである。アルシャンボー8世の子アルシャンボー9世は、1249年に十字軍に参加し、キプロスで死去した。男子継承者のなかったブルボネーはブルゴーニュ家へ渡った。

1272年、ブルボネー領主ベアトリス・ド・ブルゴーニュ(アルシャンボー9世の娘アニェスと、ブルゴーニュ公ユーグ4世の子ジャンを両親に持つ)は、フランス王子・クレルモン伯ロベール聖王ルイ9世の子)と結婚した。2人の間に生まれたブルボン公ルイ1世が、長きにわたる、そして現在一般にブルボン家として知られる家系の祖となった。フランスのブルボン朝アンリ4世によって始まり、1848年のルイ・フィリップの退位まで続いた。

ブルボン家は王家の構成員との同盟関係を結んでいた。彼らは王の奉仕として自軍を派遣し、ブルボネーの地理的位置から恩恵を得ていた(ブルボネーは王領とアキテーヌ公領、オーヴェルニュの間に位置していた)。ベアトリスとクレルモン伯の結婚同様この同盟関係は、地域の地位向上と繁栄を助けた。1327年、当時の王シャルル4世によって、ブルボン家は公爵位を授けられた。