「リブモント条約」の版間の差分
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== 内容 == |
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880年に結ばれたこの条約で、西フランク王国の[[ルイ3世 (西フランク王)|ルイ3世]]は、[[ロートリンゲン]](ロレーヌ)地方の西部を放棄した。放棄された地域は過去[[ヴェルダン条約]]で画定された国境まで及び、この地域が再び東フランク王国に帰属することになった。一方、中フランクが[[イタリア王国 (中世)|イタリア王国]]と別にスイス辺りで再興したり([[ユーラブルグント王国]])、西フランク由来の[[キスユラブルグント王国]]が興ったりした。それから半世紀で両ブルグント王国が中フランクの血筋により統一され、[[イタリア政策]]の背景となる複雑な国際関係が生まれた。 |
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879年に西フランク王[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]]が死去、[[ルイ3世 (西フランク王)|ルイ3世]]と[[カルロマン2世 (西フランク王)|カルロマン2世]]の二人の息子が継承争いの末、共に王位を継承し、[[ロートリンゲン]](ロレーヌ)地方の西部(旧[[ロタリンギア]]の一部)はルイ3世のものとなった。しかし、880年に結ばれたこの条約で、西フランク王国の[[ルイ3世 (西フランク王)|ルイ3世]]は、ロートリンゲン西部を放棄した<ref>成瀬、p. 92</ref><ref>瀬原、p. 54</ref>。放棄された地域は過去[[ヴェルダン条約]]で画定された国境まで及び、この地域が再び東フランク王国に帰属することになった。一方、ルイ2世死去後の混乱に乗じて中フランク王家の姻戚である[[ボソ (プロヴァンス王)|ボソ]]が[[キスユラブルグント王国]](プロヴァンス王国)を興し独立を果たし、888年にはボソの女婿[[ルドルフ1世 (ブルグント王)|ルドルフ1世]]が[[ユーラブルグント王国]](旧[[ロタリンギア]]の一部)の王位に就き独立した。それから半世紀後の933年、ユーラブルグント王[[ルドルフ2世 (ブルグント王)|ルドルフ2世]]<ref>ブルグント王[[ルドルフ2世 (ブルグント王)|ルドルフ2世]]は[[プロヴァンス]]王[[ボソ (プロヴァンス王)|ボソ]]の娘ウィラの息子である。ただしウィラはカロリング家とは直接の血縁関係はないとみられる(キスユラブルグント王[[ボソ (プロヴァンス王)|ボソ]]参照)。</ref>がブルグントを統一し([[アルル王国|両ブルグント王国]])、[[イタリア政策]]の背景となる複雑な国際関係が生まれた。 |
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880年を有体に書けば、[[メルセン条約]]の国境が南北にまっすぐだった部分を、S字クランクのように再画定したのである。結果として、東フランク王国が[[フランケン地方]]、[[ザクセン公国]]、[[アルザス]]・ロートリンゲンにまたがる地域を支配することになった。ロートリンゲンをめぐる両王国の抗争は今後も続いた。しかし、この条約で定められた勢力範囲は、基本的には[[オランダ独立戦争]]まで大きく変更されることはなかった。キスユラブルグント王国は、近代の[[サルデーニャ王国]]と[[リソルジメント]]を伏線づけていた。 |
880年を有体に書けば、[[メルセン条約]]の国境が南北にまっすぐだった部分を、S字クランクのように再画定したのである。結果として、東フランク王国が[[フランケン地方]]、[[ザクセン公国]]、[[アルザス]]・ロートリンゲンにまたがる地域を支配することになった。ロートリンゲンをめぐる両王国の抗争は今後も続いた。しかし、この条約で定められた勢力範囲は、基本的には[[オランダ独立戦争]]まで大きく変更されることはなかった。キスユラブルグント王国は、近代の[[サルデーニャ王国]]と[[リソルジメント]]を伏線づけていた。 |
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== 関連項目 == |
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* [[帝国整序令]] |
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* [[ヴェルダン条約]] |
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* [[メルセン条約]] |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年 |
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* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年 |
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2019年9月7日 (土) 12:05時点における版
リブモント条約またはリブモン条約(独:Vertrag von Ribemont、仏:Traité de Ribemont)は、880年に西フランク王国のルイ3世と東フランク王国のルートヴィヒ3世の間で締結された条約。これによって、ルートヴィヒ1世の死後から続いていたカロリング家の領土相続争いが収拾した。
内容
879年に西フランク王ルイ2世が死去、ルイ3世とカルロマン2世の二人の息子が継承争いの末、共に王位を継承し、ロートリンゲン(ロレーヌ)地方の西部(旧ロタリンギアの一部)はルイ3世のものとなった。しかし、880年に結ばれたこの条約で、西フランク王国のルイ3世は、ロートリンゲン西部を放棄した[1][2]。放棄された地域は過去ヴェルダン条約で画定された国境まで及び、この地域が再び東フランク王国に帰属することになった。一方、ルイ2世死去後の混乱に乗じて中フランク王家の姻戚であるボソがキスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)を興し独立を果たし、888年にはボソの女婿ルドルフ1世がユーラブルグント王国(旧ロタリンギアの一部)の王位に就き独立した。それから半世紀後の933年、ユーラブルグント王ルドルフ2世[3]がブルグントを統一し(両ブルグント王国)、イタリア政策の背景となる複雑な国際関係が生まれた。
880年を有体に書けば、メルセン条約の国境が南北にまっすぐだった部分を、S字クランクのように再画定したのである。結果として、東フランク王国がフランケン地方、ザクセン公国、アルザス・ロートリンゲンにまたがる地域を支配することになった。ロートリンゲンをめぐる両王国の抗争は今後も続いた。しかし、この条約で定められた勢力範囲は、基本的にはオランダ独立戦争まで大きく変更されることはなかった。キスユラブルグント王国は、近代のサルデーニャ王国とリソルジメントを伏線づけていた。
関連項目
脚注
参考文献
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年