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日祐は[[千葉氏]]一族の子と伝えられ、千葉胤貞の[[猶子]]となる。胤貞の庇護下にあった[[日高 (僧)|日高]]に師事し、[[正和]]3年([[1314年]])中山本妙寺兼若宮法花寺(現在の[[法華経寺]])3世貫首となった。千葉胤貞流の[[千田氏]]・[[九州千葉氏]]の[[外護]]を受けて、[[房総]]を中心として[[勧進]]・[[結縁]]活動にあたり、[[日本寺 (多古町)|日本寺]]をはじめ、[[千田荘]]・[[八幡荘 (下総国)|八幡荘]]・[[臼井荘]]の各地に寺院を建立した<ref>『中山法華経寺文書』 元徳3年9月4日付 千葉胤貞譲状</ref><ref>『中山法華経寺文書』 観応3年4月25日付 千葉胤継寄進状など</ref>。
日祐は[[千葉氏]]一族の子と伝えられ、千葉胤貞の[[猶子]]となる。胤貞の庇護下にあった[[日高 (僧)|日高]]に師事し、[[正和]]3年([[1314年]])中山本妙寺兼若宮法花寺(現在の[[法華経寺]])3世貫首となった。千葉胤貞流の[[千田氏]]・[[九州千葉氏]]の[[外護]]を受けて、[[房総]]を中心として[[勧進]]・[[結縁]]活動にあたり、[[日本寺 (多古町)|日本寺]]をはじめ、[[千田荘]]・[[八幡荘 (下総国)|八幡荘]]・[[臼井荘]]の各地に寺院を建立した<ref>『中山法華経寺文書』 元徳3年9月4日付 千葉胤貞譲状</ref><ref>『中山法華経寺文書』 観応3年4月25日付 千葉胤継寄進状など</ref>。


また日祐は、毎年のように[[甲斐国]]・[[身延山]][[久遠寺]]の日蓮墓所に参詣し、久遠寺3世・[[日進 (身延3世)|日進]]と親交を深めて両寺院の発展に貢献した。更に、[[天皇]]及び[[征夷大将軍|将軍]]([[室町幕府]])への奏聞のためにたびたび[[上洛]]を行い、千葉胤貞が[[肥前国]][[小城郡]]に所領を持つと、現地に赴いて[[光勝寺]]の[[開山 (仏教)|開山]]となった。
また日祐は、毎年のように[[甲斐国]]・[[身延山]][[久遠寺]]の日蓮墓所に参詣し、久遠寺3世・[[日進 (身延3世)|日進]]と親交を深めて両寺院の発展に貢献した<ref name="minobusanshi39">[[#身延山史|身延山史 (1973)]], pp. 39-44</ref>。更に、[[天皇]]及び[[征夷大将軍|将軍]]([[室町幕府]])への奏聞のためにたびたび[[上洛]]を行い、千葉胤貞が[[肥前国]][[小城郡]]に所領を持つと、現地に赴いて[[光勝寺]]の[[開山 (仏教)|開山]]となった。


日祐は、[[富木常忍|日常]](法華経寺初代)・日高(法華経寺2世)が遺した[[日蓮]]真蹟である遺文の保存・整理に努め、更なる蒐集にも尽力した。また、[[法華経]]の転読・写経の繰り返しや日蓮の教義に対する研究を深めて、『問答肝要抄』『宗体決疑抄』などを著した。
日祐は、[[富木常忍|日常]](法華経寺初代)・日高(法華経寺2世)が遺した[[日蓮]]真蹟である遺文の保存・整理に努め、更なる蒐集にも尽力した。また、[[法華経]]の転読・写経の繰り返しや日蓮の教義に対する研究を深めて、『問答肝要抄』『宗体決疑抄』などを著した。
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*千野原靖方『千葉氏 鎌倉・南北朝編』[[崙書房出版]]、[[1995年]] ISBN 4845510154
*千野原靖方『千葉氏 鎌倉・南北朝編』[[崙書房出版]]、[[1995年]] ISBN 4845510154
*市古貞次『国書人名辞典 3』[[岩波書店]]、[[1996年]]
*市古貞次『国書人名辞典 3』[[岩波書店]]、[[1996年]]
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2018年4月18日 (水) 22:52時点における版

日祐(にちゆう、永仁6年(1298年) - 応安7年/文中3年5月19日1374年6月29日))は、鎌倉南北朝時代日蓮宗千葉胤貞猶子下総国の出身。号は浄行院。

経歴

日祐は千葉氏一族の子と伝えられ、千葉胤貞の猶子となる。胤貞の庇護下にあった日高に師事し、正和3年(1314年)中山本妙寺兼若宮法花寺(現在の法華経寺)3世貫首となった。千葉胤貞流の千田氏九州千葉氏外護を受けて、房総を中心として勧進結縁活動にあたり、日本寺をはじめ、千田荘八幡荘臼井荘の各地に寺院を建立した[1][2]

また日祐は、毎年のように甲斐国身延山久遠寺の日蓮墓所に参詣し、久遠寺3世・日進と親交を深めて両寺院の発展に貢献した[3]。更に、天皇及び将軍室町幕府)への奏聞のためにたびたび上洛を行い、千葉胤貞が肥前国小城郡に所領を持つと、現地に赴いて光勝寺開山となった。

日祐は、日常(法華経寺初代)・日高(法華経寺2世)が遺した日蓮真蹟である遺文の保存・整理に努め、更なる蒐集にも尽力した。また、法華経の転読・写経の繰り返しや日蓮の教義に対する研究を深めて、『問答肝要抄』『宗体決疑抄』などを著した。

墓所は法華経寺。

脚注

  1. ^ 『中山法華経寺文書』 元徳3年9月4日付 千葉胤貞譲状
  2. ^ 『中山法華経寺文書』 観応3年4月25日付 千葉胤継寄進状など
  3. ^ 身延山史 (1973), pp. 39-44

参考文献

  • 高木豊「日祐」『国史大辞典 11』吉川弘文館1990年 ISBN 4642005110
  • 千野原靖方『千葉氏 鎌倉・南北朝編』崙書房出版1995年 ISBN 4845510154
  • 市古貞次『国書人名辞典 3』岩波書店1996年
  • 身延山久遠寺(編) 編『身延山史・続身延山史』身延山久遠寺、1973年。全国書誌番号:74004054