「西牟田氏」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
m (Bot: ====蛭池館==== → ===蛭池館===, ====西古賀館==== → ===西古賀館===, ====彌吉上総家宅==== → ===彌吉上総家宅===, ====西牟田館==== → ===西牟田館===, ====本… ,Corrected level of heading(s) ∵Check Wikipedia #25)
編集の要約なし
 
'''西牟田氏'''(にしむたし)は、[[鎌倉時代]]以来の[[筑後国]]の豪族。[[鎌倉時代]]は[[地頭職]]、[[室町時代]]は[[国人]]領主、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]は戦国大名(5万石)で[[西牟田城]]主であった。
[[薩摩]]にも[[島津義久]]の弟・[[島津金吾歳久]]を祖とする日置島津家の家臣に西牟田氏があるが、これは現在の[[鹿児島県]][[薩摩川内市]]の西牟田付近に勢力を持った別系統の氏族である。
 
『筑後国豪族旧家系図』の西牟田系図(佐賀藩西牟田家に伝わるもの)によると西牟田氏は、[[天児屋命|天児屋根命]]から21世の[[藤原鎌足|中臣鎌足]]、それから15代を経た権中納言[[藤原家房]]の子である讃岐守[[西牟田讃岐守家直)|家直]]を始祖としている。
西牟田氏の出自について、杉山正仲の『校訂筑後志』は藤原姓「[[宇都宮氏]]」としている。宇都宮氏は、藤原兼家の三男・道兼の子孫である。しかし、西牟田氏の系図では、西牟田氏は兼家の長男・道隆の子孫となっているので、藤原姓ではあるが「宇都宮氏」ではない。
 
西牟田氏の系図は、①[[生葉郡]]大石村庄屋(西牟田氏の流れを汲む彌吉氏)家蔵のもの(矢野一貞の『校訂筑後国史』に収録)、②佐賀藩西牟田家に伝わるもの(『筑後国豪族旧家系図』等に収録)、③西牟田氏の菩提寺であった筑後市西牟田[[寛元寺]]の「寛元寺文書」のもの、点がよく知られている。
 
これらはいずれも西牟田氏の始祖である藤原家直を、[[藤原北家]]流で関白[[藤原道隆]]の後裔としている。
 
また、①③の系図では、その3代後の[[西牟田彌次郎家綱]]入道藤原行西は、[[嘉禎]]年中(1235~38)に、豆州三島より[[三瀦郡]]西牟田村に(地頭として)赴任し、村の名前を取って「西牟田氏」を名乗ったとされている。
筑後市西牟田にある寛元寺や三潴郡蛭池村の三島明神などの社寺の正式な「縁起」「開基帳」にも同様の内容が記されている。
 
②の系図では、初代家直の時に筑後国西牟田之邑へ下向したこととなっていて、①③の系図と比べると九州へ移った時期が相当早い。
 
=== 藤姓上妻氏族説 ===
 
しかし、東国出身者であっても地方に土着した後に「小地頭」に任命された例があるので<ref>『筑後市史』446頁</ref>、これだけをもって東国下向説を否定することはできない。
鍋島佐賀西牟田系図も、「寛元寺文書」の西牟田系図も、西牟田氏の初代は家綱(行西)ではなく、その三代も前の讃岐守家直としており、特に佐賀藩西村牟田系図は、筑後国への下向を家直の代、すなわち鎌倉幕府の成立前としている。
 
行西の九州下向の伝承については賛否両論があり、他の多くの地方豪族の伝承と同様に真偽の程は不明である。
154

回編集

案内メニュー