「上原城」の版間の差分
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[[天文 (日本)|天文]]11年([[1542年]])に[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]が[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄|武田晴信]](信玄)に滅ぼされると諏訪地方は[[武田氏]]の領国化され、宿老[[板垣信方]]など諏訪郡代が置かれ上原城は武田家の信濃領国支配の拠点のひとつとなる。 |
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板垣信方は武田氏の諏訪・佐久郡侵攻において先発隊を指揮しており、上原城配置以前から両郡における所領宛行などを行っている。信方は公式には諏訪郡司(郡代)の立場であったが、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])2月の信濃村上氏との合戦で戦死する。信方の死後、上原城には弟の室住玄蕃充が派遣されるが、同年8月には[[長坂光堅|長坂虎房]](光堅)が配置される。虎房は翌天文18年正月に[[高島城]](諏訪市高島)へ移り、以後諏訪郡司は高島城に在城した。 |
板垣信方は武田氏の諏訪・佐久郡侵攻において先発隊を指揮しており、上原城配置以前から両郡における所領宛行などを行っている。信方は公式には諏訪郡司(郡代)の立場であったが、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])2月の信濃村上氏との合戦で戦死する。信方の死後、上原城には弟の[[室住虎登|室住玄蕃充虎登]]が派遣されるが、同年8月には[[長坂光堅|長坂虎房]](光堅)が配置される。虎房は翌天文18年正月に[[高島城]](諏訪市高島)へ移り、以後諏訪郡司は高島城に在城した。 |
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[[天正]]10年([[1582年]])の[[織田氏]]の[[甲州征伐]]による武田氏滅亡とともに廃城となった。 |
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※[[武田氏]]時代は郡司(郡代)を置いた。 |
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* 丸島和洋「戦国大名武田氏の領域支配と「郡司」-信濃国諏訪郡支配を事例として-」『史学』75巻2・3合併号、2007年 |
* [[丸島和洋]]「戦国大名武田氏の領域支配と「郡司」-信濃国諏訪郡支配を事例として-」『史学』75巻2・3合併号、2007年 |
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== 外部リンク == |
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2015年11月30日 (月) 09:52時点における版
上原城 (長野県) | |
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上原城居館跡の石碑 | |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 諏訪氏 |
主な改修者 | 板垣信方 |
指定文化財 | なし |
位置 | 北緯36度00分33.0秒 東経138度08分54.9秒 / 北緯36.009167度 東経138.148583度座標: 北緯36度00分33.0秒 東経138度08分54.9秒 / 北緯36.009167度 東経138.148583度 |
上原城(うえはらじょう)は、信濃国諏訪郡(現在の長野県茅野市ちの上原)にあった中世の日本の城(山城)。長野県指定史跡。上原城の支城として桑原城がある。
概要
金毘羅山(標高978m)の山頂と中腹の居館からなる諏訪総領家の本拠であった根小屋式山城である。
築城年は定かではないが、文正元年(1466年)頃、諏訪信満が中腹に居館を建て、5代70余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられており、『守矢頼実書留』によれば上原町には堀廻りが存在し、信濃国衆の小規模城下町である「宿城」(町宿)であったと考えられている。
天文11年(1542年)に諏訪頼重が甲斐の武田晴信(信玄)に滅ぼされると諏訪地方は武田氏の領国化され、宿老板垣信方など諏訪郡代が置かれ上原城は武田家の信濃領国支配の拠点のひとつとなる。
板垣信方は武田氏の諏訪・佐久郡侵攻において先発隊を指揮しており、上原城配置以前から両郡における所領宛行などを行っている。信方は公式には諏訪郡司(郡代)の立場であったが、天文17年(1548年)2月の信濃村上氏との合戦で戦死する。信方の死後、上原城には弟の室住玄蕃充虎登が派遣されるが、同年8月には長坂虎房(光堅)が配置される。虎房は翌天文18年正月に高島城(諏訪市高島)へ移り、以後諏訪郡司は高島城に在城した。
天正10年(1582年)の織田氏の甲州征伐による武田氏滅亡とともに廃城となった。
主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪、空堀、物見石などの遺構が残る。
歴代城主
城主
諏訪氏時代
郡司
※武田氏時代は郡司(郡代)を置いた。
交通アクセス
関連項目
参考文献
- 丸島和洋「戦国大名武田氏の領域支配と「郡司」-信濃国諏訪郡支配を事例として-」『史学』75巻2・3合併号、2007年