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'''プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス'''({{lang-la|'''Publius Licinius Valerianus'''}},[[193年]]か[[195年]]か[[200年]] - [[260年]]から[[264年]])は、[[軍人皇帝]]時代の[[ローマ帝国]][[皇帝]]である。


== 生涯 ==
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[[259年]]、ウァレリアヌスは軍勢を率いてペルシアへと侵攻したが、エデッサ(現在の[[シャンルウルファ]])で[[シャープール1世]]率いるペルシア軍との戦いに敗れて、捕虜となった([[エデッサの戦い]])。その後、ウァレリアヌスは[[ビシャプール]]([[:en:Bishapur|en]])へ送られ、ペルシア国内で[[皮剥ぎの刑]]に処されたと伝えられる([[260年]]ともそれ以降とも)。


ローマ皇帝が敵国に捕らえられたのはローマ史上初めて(この後にも11世紀の東ローマ皇帝[[ロマノス4世ディオゲネス]]しかいない)であった。先の[[アブリットゥスの戦い]]と共にローマの国力低下を物語る出来事となった。
皇帝自身が敵国に捕らえられたのはローマ史上初めて(この後にも11世紀の東ローマ皇帝[[ロマノス4世ディオゲネス]]しかいない)であり、先の[[アブリットゥスの戦い]]と共にローマの国力低下を物語る出来事となった。


==関連項目==
==関連項目==

2014年7月27日 (日) 07:44時点における版

ウァレリアヌス
Valerianus
ローマ皇帝
ウァレリアヌスが描かれた硬貨
在位 253年11月頃〜260年

全名 プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス
Caesar Publius Licinius Valerianus Augustus
出生 193年/195年/200年
死去 260年以降
継承 ガッリエヌス
配偶者 エグナティア・マリニアナ
子女 ガッリエヌス
小ウァレリアヌス
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プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌスラテン語: Publius Licinius Valerianus193年195年200年 - 260年から264年)は、軍人皇帝時代のローマ帝国皇帝である。

生涯

ウァレリアヌスは軍人皇帝時代に即位した他の皇帝とは違い、由緒ある元老院議員の一族の出自である。ウァレリアヌスの前半生ははっきりとしないが、エグナティア・マリニアナ(en)と結婚して、2人の息子を儲けた。すなわち、後のローマ皇帝プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌスとウァレリアヌス・ミノルである。

238年ローマ内戦中には、当時の六皇帝のひとりゴルディアヌス1世によって、ウァレリアヌスはプリンケプス・セナトゥスに選出された。当時の皇帝ゴルディアヌス1世はウァレリアヌスを通じて、元老院と交渉したとわかっている。244年シャープール1世とのミシケの戦いで、ゴルディアヌス1世の孫ゴルディアヌス3世が死去すると(ピリップスのクーデターともいわれる)、ピリップス・アラブスが軍中で皇帝宣言を行った。249年にピリップスがデキウスに殺された。251年、皇帝デキウスの時代にケンソル(監察官)に選出、また、ライン川沿岸のノリクムおよびラエティア両属州の総督に任じられた。デキウスがアブリットゥスの戦いで戦死した後も、引き続いて総督職を維持したが、デキウスの後継皇帝のトレボニアヌス・ガッルスに対してマルクス・アエミリウス・アエミリアヌスが反乱を起こして、トレボニアヌス・ガッルスおよびその共同皇帝ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌスが殺害されると、アエミリウスを追討するため、軍を率いて南下。その後、アエミリウスが自軍内の兵士に殺害されると、253年にウァレリアヌスはローマ皇帝となった。

皇帝となったウァレリアヌスは息子ガッリエヌスを共同皇帝としてローマ帝国の西半分を任せ、自らはペルシア(サーサーン朝)とのリメスに面した帝国の東半分を受け持った。

捕虜となってシャープール1世に跪くウァレリアヌス(ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像)

259年、ウァレリアヌスは軍勢を率いてペルシアへと侵攻したが、エデッサ(現在のシャンルウルファ)でシャープール1世率いるペルシア軍との戦いに敗れて、捕虜となった(エデッサの戦い)。その後、ウァレリアヌスはビシャプールen)へ送られ、ペルシア国内で皮剥ぎの刑に処されたと伝えられる(260年ともそれ以降とも)。

皇帝自身が敵国に捕らえられたのはローマ史上初めて(この後にも11世紀の東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスしかいない)であり、先のアブリットゥスの戦いと共にローマの国力低下を物語る出来事となった。

関連項目

外部リンク