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2014年3月24日 (月) 11:52時点における版

飛幡八幡宮
所在地 福岡県北九州市戸畑区浅生2丁目2-2
位置 北緯33度53分36秒 東経130度49分38秒 / 北緯33.89333度 東経130.82722度 / 33.89333; 130.82722
主祭神 神功皇后
応神天皇
須佐之男命
比売大神
道祖神
社格 県社・別表神社
創建 建久年間
例祭 10月14日
主な神事 戸畑祇園大山笠行事
放生会
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飛幡八幡宮(とびはたはちまんぐう)は、福岡県北九州市戸畑区にある神社である。旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社

祭神

八幡神神功皇后応神天皇)・比売大神須佐之男命道祖神を祀る。

歴史

建久年間(1190年 - 1199年)、筑前の宇都宮氏麻生氏)の祖である宇都宮重業が、出身地の宇都宮から氏神の八幡神を勧請し、花尾城鬼門にあたる枝光村宮田山に祀ったのに始まる。後に戸畑村に遷され、戸畑・中原両村の産土神とされた。江戸時代には藩主黒田家祈願所とされた。1920年(大正9年)に現在地の浅生に遷座した。1931年(昭和6年)に県社に列した。1995年(平成7年)、それまでの「戸畑八幡神社」から「飛幡八幡宮」に社名を変更した。

祭事

7月第4週金・土・日に行われる戸畑祇園大山笠は、当社および区内の菅原神社・中原八幡宮の祭りで、国の重要無形民俗文化財となっている。『筑前国続風土記』によれば、享和2年(1802年)、戸畑村内に疫病が蔓延し、飛幡八幡宮の須佐之男命に平癒を祈願した所終息したため、翌享和3年(1803年)から始められたものである。