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{{基礎情報 ベトナムの君主 |
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|名=前呉王 呉権 |
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|代数=初代 |
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|呼称=王 |
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|説明=呉権像(唐林、カムラムの呉権廟) |
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|王朝=呉朝 |
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'''呉権'''(ご けん、{{lang-vi|Ngô Quyền}}、ゴ・クエン)は、[[ベトナム]][[呉朝]]の建国者。'''前呉王'''({{lang-vi|Tiền Ngô Vương}})と称された。 |
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==治績== |
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==死後の状況== |
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[[944年]]、呉権が死亡する。2人の子供、[[呉昌岌]]と[[呉昌文]]はまだ若く、中央の政権を堅持するための威信と力を持っていなかった。そこで官僚の[[楊三哥]]が王位を簒奪し、平王を名乗った。そのため、呉昌岌は逃亡することになる。各党派がいたるところで起ち上がり、国は不安定な状態になった。 |
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==人物== |
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[[950年]]、呉昌文は将兵の支持を得て楊三哥を打倒し、王位を獲得した。その際に兄を招いて共に統治することしたのである。 |
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長身のがっしりとした体格で、眼光が鋭く、歩く様はまるで虎のようであったと言われている。 |
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[[965年]]、呉昌文が死去すると、割拠勢力である地方の土豪の間での争いが引き続いた。そのとき、国は12の領袖が各地方を占拠し戦いあう「[[十二使君の乱]]」(~[[967年]])と呼ばれた分裂状態に陥ることになる。 |
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==参考文献== |
==参考文献== |
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*ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《世界の教科書シリーズ21》明石書店、2008年。 |
*ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《世界の教科書シリーズ21》明石書店、2008年。 |
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2013年8月21日 (水) 09:40時点における版
前呉王 呉権 | |
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呉朝 | |
初代代王 | |
呉権像(唐林、カムラムの呉権廟) | |
王朝 | 呉朝 |
在位期間 | 939年 - 944年 |
都城 | 古螺 |
姓・諱 | 呉権 |
生年 |
乾寧4年2月6日 (897年3月12日) |
没年 |
乾和2年12月20日 (944年1月18日) |
父 | 呉旻 |
后妃 | 楊廷芸の娘 |
呉権(ご けん、ベトナム語: Ngô Quyền、ゴ・クエン)は、ベトナム呉朝の建国者。前呉王(ベトナム語: Tiền Ngô Vương)と称された。
生涯
唐林(現在のハタイ省ソンタイ)の州牧だった呉旻の子として生まれる。『大越史記全書』によると、生まれたときに異様な光に包まれていて、背中には大きなあざが三つあったとされる。将来大物になるということで、名を「権」と付けられた。力は一人で鼎を持ち上げることができるほどだったといわれている。
楊廷芸の南漢に抗する戦争で勇敢に戦い、信頼を得て娘を娶った。南漢軍を撃退した後に楊廷芸より刺史の位を授かり、愛州(現在のタインホア省)を治めた。楊廷芸が矯公羨に殺されると、937年12月に愛州で挙兵して矯公羨を打ち破った。矯公羨に救援を求められた南漢は万王劉弘操を静海節度使に任じて、兵を発した。劉洪操は水軍を率いて安南に侵攻したが、この時既に呉権は矯公羨を殺していた。南漢軍の侵攻を聞いた呉権は白藤江で迎撃し、これを大いに破った。
939年に王位に上り、古螺の地を選んで都とした。北方王朝の千年にも及ぶ統治に終止符を打ったのである。
呉権は北方王朝の節度使の廃止を決定し、中央に新しい朝廷を樹立した。王が朝廷の先頭に立ち、政治・外交・軍事の全てを決定することにしたのである。文武の官僚を置き、朝廷内の儀礼と官吏の服装の色を階級に応じて規定した。
また功績のある将軍を選んで、重要な各州を治めさせた。丁公著は驩州、矯公罕は峯州(現在のフート省)の刺史となった。944年、古螺で世を去った。
人物
長身のがっしりとした体格で、眼光が鋭く、歩く様はまるで虎のようであったと言われている。
参考文献
- 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書、1997年。
- ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《世界の教科書シリーズ21》明石書店、2008年。
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