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'''島津 綱貴'''(しまづ つなたか)は、[[江戸時代]]の[[島津氏]]第20代当主。[[薩摩藩]]の第3代藩主。
'''島津 綱貴'''(しまづ つなたか)は、[[江戸時代]]の[[島津氏]]第20代当主。[[薩摩藩]]の第3代藩主。


慶安3年(1650年)10月、第2代藩主・光久の嫡孫として生まれた。初名は'''延久'''(のぶひさ)。寛文7年(1667年)12月25日、将軍家綱より、「松平」の名字と「綱」の一字を与えられ、「松平修理大夫'''綱貴'''と称する<ref>村川浩平「島津氏への松平氏下賜」『日本近世武家政権論』146~149頁。父と同名を避けるため2文字目も「久」ではなく[[島津貴久]]の[[偏諱]]である「貴」に変えたものと思われる。</ref>。[[延宝]]元年([[1673年]])、父の綱久が42歳で早世したため、祖父の光久から後継者に指名された。[[貞享]]4年([[1687年]])7月、光久が隠居したため、家督を継ぐ。
慶安3年(1650年)10月、第2代藩主・光久の嫡孫として生まれた。初名は'''延久'''(のぶひさ)。寛文7年(1667年)12月25日、父同様、将軍[[徳川家綱]]より、「松平」の名字と[[偏諱]](「綱」の一字を与えられ、'''綱貴'''(「松平修理大夫綱貴」)に改名<ref>村川浩平「島津氏への松平氏下賜」『日本近世武家政権論』146~149頁。父と同名を避けるため2文字目も「久」ではなく[[島津貴久]]の[[偏諱]]である「貴」に変えたものと思われる。</ref>。[[延宝]]元年([[1673年]])、父の綱久が42歳で早世したため、祖父の光久から後継者に指名された。[[貞享]]4年([[1687年]])7月、光久が隠居したため、家督を継ぐ。


家督継承後、薩摩藩は大洪水や大火などの災禍が相次ぎ、治世は多難を極めた。そのうえ、幕命による[[寛永寺]]本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、薩摩藩の財政は逼迫した<ref>ちなみに、この時の普請の奉行は[[禰寝清雄]]、副奉行はその婿で綱貴の叔父の[[島津久明]]が勤める。</ref>。
家督継承後、薩摩藩は大洪水や大火などの災禍が相次ぎ、治世は多難を極めた。そのうえ、幕命による[[寛永寺]]本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、薩摩藩の財政は逼迫した<ref>ちなみに、この時の普請の奉行は[[禰寝清雄]]、副奉行はその婿で綱貴の叔父の[[島津久明]]が勤める。</ref>。

2013年5月14日 (火) 11:16時点における版

 
島津綱貴
時代 江戸時代中期
生誕 慶安3年10月24日1650年11月17日
死没 宝永元年9月16日1704年10月14日
改名 (初名)延久→綱貴
別名 虎寿丸(幼名)、又三郎(通称)
諡号 厳速活光彦命
戒名 大玄院殿昌道元新大居士
墓所 鹿児島市池之上町の島津家墓地(福昌寺
官位 従四位上、左近衛中将、薩摩
幕府 江戸幕府
薩摩藩 藩主
氏族 島津氏
父母 父:島津綱久、母:松平定頼の娘(眞修院殿)
兄弟 久季(加治木島津家養子)、
妹2人(酒井忠隆正室)、(鳥居忠英正室)
正室:鷹司松平信平の娘
継室:上杉綱憲養女・鶴姫(吉良義央の娘)[1]
側室:お豊の方(家臣・江田国重の娘)[2]
吉貴、久儔(三男)、忠直(四男)、
久方(五男)、禰寝清純、久東(七男)、
久福(九男)、亀姫(近衛家久室)、
栄(久松松平定英正室)、娘(島津久智室)、
娘(町田久儔室)、娘(桂久音室)
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島津 綱貴(しまづ つなたか)は、江戸時代島津氏第20代当主。薩摩藩の第3代藩主。

慶安3年(1650年)10月、第2代藩主・光久の嫡孫として生まれた。初名は延久(のぶひさ)。寛文7年(1667年)12月25日、父同様、将軍徳川家綱より、「松平」の名字と偏諱(「綱」の一字)を与えられ、綱貴(「松平修理大夫綱貴」)に改名[3]延宝元年(1673年)、父の綱久が42歳で早世したため、祖父の光久から後継者に指名された。貞享4年(1687年)7月、光久が隠居したため、家督を継ぐ。

家督継承後、薩摩藩は大洪水や大火などの災禍が相次ぎ、治世は多難を極めた。そのうえ、幕命による寛永寺本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、薩摩藩の財政は逼迫した[4]

このように藩政は緊張をはらんだ物であったが、諸大名を辛辣な評価をしたことで知られる史料『土芥寇讎記』では数少ない「領民や藩士から慕われる殿様」として紹介されている。

宝永元年(1704年)9月、江戸・芝の藩邸にて55歳で死去。

補注

  1. ^ 延宝8年(1680年)離縁
  2. ^ 亀姫の生母で、鶴姫離縁後は対外的に「継室」と称された。参考:「薩藩旧記雑録 追録」「島津家列朝制度」など
  3. ^ 村川浩平「島津氏への松平氏下賜」『日本近世武家政権論』146~149頁。父と同名を避けるため2文字目も「久」ではなく島津貴久偏諱である「貴」に変えたものと思われる。
  4. ^ ちなみに、この時の普請の奉行は禰寝清雄、副奉行はその婿で綱貴の叔父の島津久明が勤める。