「円恵法親王」の版間の差分

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== 経歴 ==
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無品ではあったが、[[四天王寺]][[別当]]を務め、また皇族で初の[[園城寺]][[長吏]]となるなど、父である後白河法皇の院政を仏教界から支えた。しかし[[治承]]4年([[1180年]])の[[以仁王の挙兵]]においては、園城寺が[[以仁王]]の協力者となったことからそ責任問われ、四天王寺の[[検校]]職を停止されている。
無品ではあったが、[[四天王寺]][[別当]]を務め、また皇族で初の[[園城寺]][[長吏]]となるなど、父である後白河法皇の院政を仏教界から支えた。しかし[[治承]]4年([[1180年]])の[[以仁王の挙兵]]において異母兄である[[以仁王]]が園城寺に逃げ込んだ際には、[[平家]]方に情報を提供するも、王への協力の嫌疑かけら捕縛されそうになり、四天王寺の[[検校]]職を停止されている。


その後も法皇の身辺に伺候したが、そのため寿永2年の[[源義仲]]による[[法住寺 (京都市)|法住寺殿]]襲撃([[法住寺合戦]])において義仲軍と戦うこととなり、華山寺付近にて射殺された。
その後も法皇の身辺に伺候したが、そのため寿永2年の[[源義仲]]による[[法住寺 (京都市)|法住寺殿]]襲撃([[法住寺合戦]])において義仲軍と戦うこととなり、戦場からの逃亡の途中、華山寺付近にて射殺された。


皇族である円恵の戦死は、同じく法住寺合戦で討たれた[[天台座主]]・[[明雲]]のそれとともに当時の貴族社会に衝撃を与え、[[九条兼実]]は『[[玉葉]]』(寿永2年11月22日条)において、「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆している。
皇族である円恵の戦死は、同じく法住寺合戦で討たれた[[天台座主]]・[[明雲]]のそれとともに当時の貴族社会に衝撃を与え、[[九条兼実]]は『[[玉葉]]』(寿永2年11月22日条)において、「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆している。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*[[安田元久]] 『鎌倉・室町人名事典』、[[新人物往来社]]
*[[安田元久]] 『鎌倉・室町人名事典』、[[新人物往来社]]
* 新日本古典文学大系 43 『[[保元物語]] [[平治物語]] [[承久記]]』、[[岩波書店]]


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2013年1月4日 (金) 11:43時点における版

円恵法親王(えんえほっしんのう/えんけいほっしんのう、仁平2年(1152年) - 寿永2年11月19日1184年1月3日))は、平安時代末期の皇族後白河天皇の第四皇子。母は兵衛尉平信重の娘・坊門局。通称は八条宮。

経歴

無品ではあったが、四天王寺別当を務め、また皇族で初の園城寺長吏となるなど、父である後白河法皇の院政を仏教界から支えた。しかし治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において異母兄である以仁王が園城寺に逃げ込んだ際には、平家方に情報を提供するも、王への協力の嫌疑をかけられ捕縛されそうになり、四天王寺の検校職を停止されている。

その後も法皇の身辺に伺候したが、そのため寿永2年の源義仲による法住寺殿襲撃(法住寺合戦)において義仲軍と戦うこととなり、戦場からの逃亡の途中、華山寺付近にて射殺された。

皇族である円恵の戦死は、同じく法住寺合戦で討たれた天台座主明雲のそれとともに当時の貴族社会に衝撃を与え、九条兼実は『玉葉』(寿永2年11月22日条)において、「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆している。

参考文献