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築城年は定かではないが、[[文正]]元年([[1466年]])頃、[[諏訪信満]]が中腹に居館を建て、5代70余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられており、『守矢頼実書留』によれば上原町には堀廻りが存在し、信濃国衆の小規模城下町である「宿城」([[町宿]])であったと考えられている。 |
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[[天文 (日本)|天文]]11年([[1542年]])に[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]は[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信玄|武田晴信]](信玄)に滅ぼされると諏訪地方は[[武田氏]]の領国化され、[[板垣信方]]など諏訪郡代が置かれ上原城は武田家の信濃領国支配の拠点のひとつとなる。[[天正]]10年([[1582年]])の[[織田氏]]の[[甲州征伐]]による武田氏滅亡とともに廃城となった。 |
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主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪、空堀、物見石などの遺構が残る。 |
主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪、空堀、物見石などの遺構が残る。 |
2012年6月26日 (火) 08:55時点における版
上原城 (長野県) | |
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上原城居館跡の石碑 | |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 諏訪氏 |
主な改修者 | 板垣信方 |
指定文化財 | なし |
上原城(うえはらじょう)は、信濃国諏訪郡(現在の長野県茅野市ちの上原)にあった中世の山城。長野県指定史跡。上原城の支城として桑原城がある。
概要
金毘羅山(標高978m)の山頂と中腹の居館からなる諏訪総領家の本拠であった根小屋式山城である。
築城年は定かではないが、文正元年(1466年)頃、諏訪信満が中腹に居館を建て、5代70余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられており、『守矢頼実書留』によれば上原町には堀廻りが存在し、信濃国衆の小規模城下町である「宿城」(町宿)であったと考えられている。
天文11年(1542年)に諏訪頼重は甲斐の武田晴信(信玄)に滅ぼされると諏訪地方は武田氏の領国化され、板垣信方など諏訪郡代が置かれ上原城は武田家の信濃領国支配の拠点のひとつとなる。天正10年(1582年)の織田氏の甲州征伐による武田氏滅亡とともに廃城となった。
主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪、空堀、物見石などの遺構が残る。
歴代城主
城主
諏訪氏時代
郡代
※武田氏時代は郡代を置いた。