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'''ニコライ・ミハイロヴィチ・シュヴェルニク'''('''Никола́й Миха́йлович Шве́рник''', Nikolai Mikhailovich Shvernik, [[ユリウス暦]][[1888年]][[5月7日]]([[グレゴリオ暦]][[5月19日]]) - [[1970年]][[12月24日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]。ソ連[[最高会議幹部会議長]]を務めた(在任期間は、[[1946年]][[3月19日]]から[[1953年]][[3月15日]]まで)。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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[[第二次世界大戦]]中、シュヴェルニクはおもに[[ヨーロッパ・ロシア]]の産業を[[ナチス・ドイツ]]の侵攻から[[ウラル]]以東に疎開させる役割を担った。戦後の[[1946年]]、[[ミハイル・カリーニン]]の跡を引継いでソ連の[[国家元首]]に相当する最高会議幹部会議長に選出された。[[1952年]]党幹部会員(政治局員)に昇格するが、翌[[1953年]]スターリンの死後、幹部会員候補に降格されている。

2010年6月25日 (金) 02:22時点における版

ニコライ・ミハイロヴィチ・シュヴェルニク
Никола́й Миха́йлович Шве́рник
ファイル:NikolayShvernik.jpg
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦最高会議幹部会議長
任期
1946年3月19日 – 1953年3月15日
前任者ミハイル・カリーニン
後任者クリメント・ヴォロシーロフ
個人情報
生誕 (1888-05-07) 1888年5月7日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクトペテルブルク
死没1970年12月24日(1970-12-24)(82歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦モスクワ
国籍ロシア人
政党ロシア社会民主労働党
ロシア共産党(ボリシェヴィキ派)
ソビエト連邦共産党

ニコライ・ミハイロヴィチ・シュヴェルニクНикола́й Миха́йлович Шве́рник, Nikolai Mikhailovich Shvernik, ユリウス暦1888年5月7日グレゴリオ暦5月19日) - 1970年12月24日)は、ソビエト連邦政治家。ソ連最高会議幹部会議長を務めた(在任期間は、1946年3月19日から1953年3月15日まで)。

生涯

1888年、サンクトペテルブルクに生まれる。1905年ロシア社会民主労働党に入党。のち同党がボリシェヴィキメンシェヴィキに分裂すると、ボリシェヴィキ側に付いた。ロシア革命後の1924年ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員に就任し、翌1925年には党中央委員に選出された。1927年ウラル地方の党書記に降格されるが、ヨシフ・スターリン五カ年計画に基づく重工業化に対する熱心な唱道者であったため、政治的に復権を果たした。

1929年モスクワに戻り、冶金労働者組合議長に就任、共産党組織局員兼書記に選出された。1930年全ソ労組中央評議会第一書記に就任し、1944年までこの地位にいた。1939年にはソ連共産党政治局員候補に選出された。

第二次世界大戦中、シュヴェルニクはおもにヨーロッパ・ロシアの産業をナチス・ドイツの侵攻からウラル以東に疎開させる役割を担った。戦後の1946年ミハイル・カリーニンの跡を引継いでソ連の国家元首に相当する最高会議幹部会議長に選出された。1952年党幹部会員(政治局員)に昇格するが、翌1953年スターリンの死後、幹部会員候補に降格されている。

スターリンの死後は、一層、名目上の国家元首として存在感を薄くしていたが、その地位をソ連邦元帥であるクリメント・ヴォロシーロフに取って代わられた。最高会議幹部会議長を退いたシュヴェルニクは、古巣である全ソ労組中央評議会議長に選出された。1953年ニキータ・フルシチョフによってソ連共産党統制委員会議長に就任する。フルシチョフは非スターリン化の一環として、シュヴェルニクを大粛清の犠牲者に対する名誉回復を担当させた。このため、この時期統制委員会は「シュヴェルニク委員会」と呼ばれた。1957年党幹部会員に復帰し、1966年に引退するまで正会員の地位を保った。

先代
ミハイル・カリーニン
ソ連最高会議幹部会議長
1946年 - 1953年
次代
クリメント・ヴォロシーロフ