「千坂高房」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
17行目: 17行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[千坂氏]]は[[長尾氏]]、[[石川氏]]、[[斎藤氏]]と並ぶ[[上杉氏]]の四家老家(千坂、長尾、石川、斎藤)の一つ。[[上杉謙信]]の親衛隊の役割を果たし、[[上杉景勝]]政権下で上杉家の外交役として伏見留守居役を務め、[[関ヶ原の戦い]]後には徳川家との和睦交渉成功に導いた[[千坂景親]](対馬)は、米沢藩初代江戸家老であり、その子孫の[[千坂高治]]も江戸家老となっている。
[[千坂氏]]は[[長尾氏]]、[[石川氏]]、[[斎藤氏]]と並ぶ[[上杉氏]]の四家老家(千坂、長尾、石川、斎藤)の一つ。[[上杉謙信]]の親衛隊、[[上杉景勝]]政権下で上杉家の外交役として伏見留守居役を務め、[[関ヶ原の戦い]]後には徳川家との折衝役務めた[[千坂景親]](対馬)は、米沢藩初代江戸家老であり、その子孫の[[千坂高治]]も江戸家老となっている。


その江戸家老千坂高治の子として生まれたのがこの高房である。[[寛文]]8年([[1668年]])11月5日、千坂家の家督を相続したが、寛文4年([[1664年]])、藩主[[上杉綱勝]]急死によって米沢藩領を30万石から15万石に減らされたため、家臣たちも半知となって千坂家の所領はこのとき1565石となっていた(もともとは3130石)。
その江戸家老千坂高治の子として生まれたのがこの高房である。[[寛文]]8年([[1668年]])11月5日、千坂家の家督を相続したが、寛文4年([[1664年]])、藩主[[上杉綱勝]]急死によって米沢藩領を30万石から15万石に減らされたため、家臣たちも半知となって千坂家の所領はこのとき1565石となっていた(もともとは3130石)。

2009年11月23日 (月) 01:10時点における版

{{{このテンプレートは廃止されました。}}}
時代 江戸時代前期
生誕 寛永15年(1638年
死没 元禄13年5月9日1700年6月25日
別名 太郎左衛門、釆女、兵部(通称)
墓所 日朝寺(山形県米沢市
主君 上杉綱勝綱憲
出羽国米沢藩家老
氏族 千坂氏
父母 父:千坂高治、母:不明
兄弟 千坂高房、鮎川高長
不明
千坂尚親

千坂 高房(ちさか たかふさ、寛永15年(1638年) - 元禄13年5月9日1700年6月25日))は、江戸時代前期の人物。米沢藩上杉家の江戸家老千坂高治の子で、千坂景親玄孫にあたる。通称の千坂 兵部(ちさか ひょうぶ)の名で知られる。

経歴

千坂氏長尾氏石川氏斎藤氏と並ぶ上杉氏の四家老家(千坂、長尾、石川、斎藤)の一つ。上杉謙信の親衛隊で、上杉景勝政権下で上杉家の外交役として伏見留守居役を務め、関ヶ原の戦い後には徳川家との折衝役を務めた千坂景親(対馬)は、米沢藩初代江戸家老であり、その子孫の千坂高治も江戸家老となっている。

その江戸家老千坂高治の子として生まれたのがこの高房である。寛文8年(1668年)11月5日、千坂家の家督を相続したが、寛文4年(1664年)、藩主上杉綱勝急死によって米沢藩領を30万石から15万石に減らされたため、家臣たちも半知となって千坂家の所領はこのとき1565石となっていた(もともとは3130石)。

延宝2年(1676年)6月2日、世襲してきた江戸家老に就任。元禄12年(1699年)4月23日、隠居して米沢に帰国した。隠居料として15人扶持を与えられる。元禄13年(1700年)5月9日に死去した。享年62。

忠臣蔵

実際の千坂兵部が元禄赤穂事件の際にはすでに死んでいるにもかかわらず、忠臣蔵などのドラマでは、吉良上野介邸討ち入りの際に実父吉良上野介を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を押しとどめる役などで出てくることが多いのは、大佛次郎著『赤穂浪士』の影響である。しかし最近では、千坂が当時すでに死亡していたことが広く知られるようになったため、かわって当時の上杉家江戸家老色部又四郎がこの役を代行することが多くなった。

子孫

七家騒動上杉治憲竹俣当綱莅戸善政の免職を要求して、隠居閉門に追いこまれた千坂高敦明治時代貴族院議員千坂高雅は、高房の子孫になる。

演じた俳優

映画

関連項目