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* [[1882年]](明治15年)12月20日、[[北海道]]札幌郡豊平町真駒内に[[町村金弥]]・そとの長男として生まれる。父・[[町村金弥|金弥]]は前年の明治14年に札幌農学校(二期生)を卒業後真駒内牧牛場の主任として経営に当たっていた<ref>『町村敬貴伝』35頁</ref>。 |
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* [[1903年]](明治36年)[[札幌農学校]](現在の[[北海道大学]])農芸伝習科に入学 |
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* その後、乳牛の改良に[[血統]]の及ぼす影響の大なることを痛感し、[[アメリカ合衆国|米国]]のそれをつぶさに調査し、私財をもって数次にわたり米国より基礎種牛を購入し、その改良繁殖につとめた<ref>『町村金五伝』 |
* その後、乳牛の改良に[[血統]]の及ぼす影響の大なることを痛感し、[[アメリカ合衆国|米国]]のそれをつぶさに調査し、私財をもって数次にわたり米国より基礎種牛を購入し、その改良繁殖につとめた<ref>『町村金五伝』452頁</ref>。 |
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* 日本の[[ホルスタイン]]種改良、土地改良等酪農界の指導的役割を果たす<ref>『町村金五伝』 |
* 日本の[[ホルスタイン]]種改良、土地改良等酪農界の指導的役割を果たす<ref>『町村金五伝』447頁</ref>。 |
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* [[1945年]](昭和20年)貴族院議員に勅撰される |
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* [[1967年]](昭和42年)志津夫人逝去 |
* [[1967年]](昭和42年)志津夫人逝去 |
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* [[1968年]](昭和43年)オーストラリア、ニュージーランドに於ける酪農事情を視察 |
* [[1968年]](昭和43年)オーストラリア、ニュージーランドに於ける酪農事情を視察 |
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* [[1969年]](昭和44年)逝去 |
* [[1969年]](昭和44年)逝去 享年87<ref>『町村敬貴伝』300-302頁</ref>。 |
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== エピソード == |
== エピソード == |
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=== エピソード1 === |
=== エピソード1 === |
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⚫ | * 敬貴は少年時代から健康に恵まれ、背も高く、スポーツ万能であった。札幌農学校で敬貴が作ったハンマー投げの記録は、北大で25年間破られなかったという。その頃のハンマーは、現在の針金の付いた鉄球と違い、本当のハンマーのように、鉄球に60センチくらいの木の柄がついたもので、それを大きく振って投げた。敬貴が競技会で投げた時、大きく振り回した鉄球が地面に触れて、土煙を上げたので、もう一度やり直したら、というものもいたが、審判部長の[[松村松年]]博士がこれだけ投げたのだから、よいだろうといって、一回投げただけで止めたという。それまでの農学校の記録は18メートルであったが、敬貴は19メートルと一挙に1メートルも記録を伸ばした<ref>『町村敬貴伝』66頁</ref>。 |
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*スポーツ万能 |
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⚫ | * 敬貴は少年時代から健康に恵まれ、背も高く、スポーツ万能であった。札幌農学校で敬貴が作ったハンマー投げの記録は、北大で25年間破られなかったという。その頃のハンマーは、現在の針金の付いた鉄球と違い、本当のハンマーのように、鉄球に60センチくらいの木の柄がついたもので、それを大きく振って投げた。敬貴が競技会で投げた時、大きく振り回した鉄球が地面に触れて、土煙を上げたので、もう一度やり直したら、というものもいたが、審判部長の[[松村松年]]博士がこれだけ投げたのだから、よいだろうといって、一回投げただけで止めたという。それまでの農学校の記録は18メートルであったが、敬貴は19メートルと一挙に1メートルも記録を伸ばした |
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=== エピソード2 === |
=== エピソード2 === |
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* 敬貴がアメリカに渡った翌年の明治40年春、[[宇都宮仙太郎]]がアメリカに牛を買いに来て、父金弥からの依頼で、北海道と自然風物がよく似ているウイスコンシン州・ウエストアリスのラスト牧場で牧夫として働けるよう手配をした。 |
* 敬貴がアメリカに渡った翌年の明治40年春、[[宇都宮仙太郎]]がアメリカに牛を買いに来て、父金弥からの依頼で、北海道と自然風物がよく似ているウイスコンシン州・ウエストアリスのラスト牧場で牧夫として働けるよう手配をした。 |
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* 明治40年の敬貴の日記によると、 |
* 明治40年の敬貴の日記によると、 |
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* 4月27日 |
* 4月27日 本日宇都宮氏、吉田氏に面会す。 |
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* 4月30日 |
* 4月30日 佐治君の家を引き上げ、シアトルに行き、色々とEast行きの用意をなす。 |
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* 5月4日 |
* 5月4日 本日午後9時半の汽車(注:[[グレート・ノーザン鉄道]])に投じて出発す。 |
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* 5月7日 |
* 5月7日 午後5時 Saint Paul(注:[[セントポール]]ミネソタ州の州都)に着、8時35分C,Mor,St,P.R.Y(注:[[ミルウォーキー鉄道]])の汽車に投ず。 |
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* 5月8日 |
* 5月8日 本朝6時半、ミルウォーキーに着す。而して近きホテルに投ず、中々疲れたり。 |
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* 5月9日 |
* 5月9日 本朝ホテルボーイに聞き、12時15分の汽車にてWest Allisに行く。先ず葉書を案内として、初め着せるはRustのBrother Houseにて、之より昼食を喫し、ボギーにて一マイルばかり、目的の家に着す。此の日は、色々と労働着などを用意す。 |
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* 5月10日 |
* 5月10日 本日早朝より、搾乳し労働につきたり。先ずは道路の石のけにて、一番油を搾られたるは、実に閉口であった。案外East Eastと申して、余りに理想に駆られ過ぎたり。 |
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* 5月12日 |
* 5月12日 Sundayは牛舎の働きのみにて、少しくtimeあり、手紙を書きたり。 |
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* 5月19日 |
* 5月19日 本日は朝の仕事を終りて、ミルウォーキーに行き、少しく買物を、公園に遊び、五時帰村す。 |
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* ラスト牧場は兄弟牧場であり、共同経営であった。兄と弟は別々に近くで牧場を経営し、150ヘクタール程度で、ホルスタインは5、60頭程度だった。敬貴が実習に入ったのは弟の方で、場主、ジュリアス・ラストはドイツ系の米国人でウイスコンシン・ホルスタイン協会の副会長をしており、一男二女がいた。 |
* ラスト牧場は兄弟牧場であり、共同経営であった。兄と弟は別々に近くで牧場を経営し、150ヘクタール程度で、ホルスタインは5、60頭程度だった。敬貴が実習に入ったのは弟の方で、場主、ジュリアス・ラストはドイツ系の米国人でウイスコンシン・ホルスタイン協会の副会長をしており、一男二女がいた。 |
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* 敬貴の一日は次のようであった。 |
* 敬貴の一日は次のようであった。 |
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* 朝4時起床、搾乳、牛のかたづけ、7時朝食、牛を外に出す、それがすむと厩に行く。手入れをして、鞍をつけ、馬とともに働く、昼休みが1時間、また馬を出して働きに出る、6時ごろにあがる。馬を入れる。牛を入れて食事をさせ6時半頃夕食、7時から夜の搾乳、8時半から9時頃に仕事が終わる |
* 朝4時起床、搾乳、牛のかたづけ、7時朝食、牛を外に出す、それがすむと厩に行く。手入れをして、鞍をつけ、馬とともに働く、昼休みが1時間、また馬を出して働きに出る、6時ごろにあがる。馬を入れる。牛を入れて食事をさせ6時半頃夕食、7時から夜の搾乳、8時半から9時頃に仕事が終わる<ref>『町村敬貴伝』79-84頁</ref>。 |
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=== エピソード3 === |
=== エピソード3 === |
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* ウイスコンシン州 |
* ウイスコンシン州 州立農科大学に学ぶ |
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* アメリカへ渡って4年目、敬貴は札幌農学校出身ということもあり、英語さえわかればアメリカの大学へ入学できうるということになり、ウイスコンシン州の州立農科大学酪農科に入学した。大学のある州都マジソンは当時人口二万程度、酪農の中心地であっただけに、大学も試験研究所も一流中の一流の水準を持っていた |
* アメリカへ渡って4年目、敬貴は札幌農学校出身ということもあり、英語さえわかればアメリカの大学へ入学できうるということになり、ウイスコンシン州の州立農科大学酪農科に入学した。大学のある州都マジソンは当時人口二万程度、酪農の中心地であっただけに、大学も試験研究所も一流中の一流の水準を持っていた<ref>『町村敬貴伝』86頁</ref>。 |
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* 敬貴は後年ラスト牧場における回想を次のように語っている。 |
* 敬貴は後年ラスト牧場における回想を次のように語っている。 |
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* 「 |
* 「私が初めて世話になった家庭(注:ラスト牧場のこと)でも、いろいろと私のために図ってくれまして、お前も折角来たんだから、やはり大学だけはやらなければうまくないだろう、夏はおれのところで働けばいいから、秋から春までは大学に行って勉強して来い、といいます。向こうに丁度大学がありましたから、三年間だけは夏働いて、秋冬春を大学で過ごしまして、もうその時には、どうやら言葉が自由になりましたが、みんなと一緒に学んで得た利益は多いと、私は思っております。それはみな、自分がその家に非常に尽くしたものですから、学費を出してくれたのです。学校を出ましてから後も、ラスト牧場に帰りまして、また相当長い期間働きましたが、常に北海道へ帰ろうということだけは、自分の念頭から離れなかった。」<ref>『町村敬貴伝』90-91頁</ref>。 |
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== 家族・親族 == |
== 家族・親族 == |
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保科 正益━━━━━━━━━━━寧子 ┗岩崎 恒弥 |
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== 参考文献 == |
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*『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 447、451-452頁 |
*『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 447、451-452頁 |
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*[[佐藤朝泰]] 『豪閥 <small>地方豪族のネットワーク</small>』 2001年 10-21頁 |
*[[佐藤朝泰]] 『豪閥 <small>地方豪族のネットワーク</small>』 2001年 10-21頁 |
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== 脚注 == |
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== 外部リンク == |
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*[http://www.machimura.co.jp/ まちむら農場] |
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*[http://kingendaikeizu.net/seizi/matimura.htm 近現代・系図ワールド~政治家系大事典~] |
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*[http://episode.kingendaikeizu.net/34.htm#okazakikeizu 系図でみる近現代 第34回] |
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*[http://210.191.215.20/iword/s98_7.html 町村敬貴(有限会社 町村農場)] |
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2009年8月19日 (水) 01:04時点における版
町村 敬貴(まちむら ひろたか、1882年12月 - 1969年8月12日)は、日本の政治家、実業家。元貴族院議員、元参議院議員。正四位勲二等。
町村金弥は父。政治家町村信孝は甥。町村金五(元北海道知事)は実弟。
経歴
- 1882年(明治15年)12月20日、北海道札幌郡豊平町真駒内に町村金弥・そとの長男として生まれる。父・金弥は前年の明治14年に札幌農学校(二期生)を卒業後真駒内牧牛場の主任として経営に当たっていた[1]。
- 1903年(明治36年)札幌農学校(現在の北海道大学)農芸伝習科に入学
- 1906年(明治39年)札幌農学校を卒業後単身渡米、ウィスコンシン州ウエストアリスのラスト牧場にて牧夫として酪農を実習
- 1910年(明治43年)4月 ウィスコンシン州立農科大学入学
- 1912年(明治45年)一旦帰国、渡辺志津と結婚、再度渡米
- 1913年(大正2年)3月 ウィスコンシン州立農科大学を卒業。
- 1916年(大正5年)帰国
- 1917年(大正6年)北海道石狩町樽川にて町村農場を創業
- 1928年(昭和3年)に北海道江別町対雁に移転。
- 1945年(昭和20年)貴族院議員に勅撰される
- 1947年(昭和22年)参議院議員に当選。緑風会に所属し、1期務める
- 1950年(昭和25年)吉田内閣農政懇談会に学識経験者委員として参加
- 1952年(昭和27年)政府の嘱託として欧米各国の泥炭地改良事業及び土地利用状況視察のため出張
- 1962年(昭和37年)日本酪農の確立、ホルスタイン種の導入普及など農業界への功績により藍綬褒章を賜る
- 1963年(昭和38年)第二回全国農業祭畜産部門天皇杯受賞
- 1964年(昭和39年)江別市名誉市民
- 1967年(昭和42年)志津夫人逝去
- 1968年(昭和43年)オーストラリア、ニュージーランドに於ける酪農事情を視察
- 1969年(昭和44年)逝去 享年87[4]。
エピソード
エピソード1
- 敬貴は少年時代から健康に恵まれ、背も高く、スポーツ万能であった。札幌農学校で敬貴が作ったハンマー投げの記録は、北大で25年間破られなかったという。その頃のハンマーは、現在の針金の付いた鉄球と違い、本当のハンマーのように、鉄球に60センチくらいの木の柄がついたもので、それを大きく振って投げた。敬貴が競技会で投げた時、大きく振り回した鉄球が地面に触れて、土煙を上げたので、もう一度やり直したら、というものもいたが、審判部長の松村松年博士がこれだけ投げたのだから、よいだろうといって、一回投げただけで止めたという。それまでの農学校の記録は18メートルであったが、敬貴は19メートルと一挙に1メートルも記録を伸ばした[5]。
エピソード2
- ウイスコンシン州のラスト牧場で牧夫として実習
- 敬貴が渡米したのは明治39年4月。横浜港から家族に見送られて旅立った。それから十年間、敬貴はその立志を達成すべく帰国しなかった。
- 渡米から1年間はシアトル周辺で農家の手伝い、製薬工場のタンク掃除、赤帽などの数々のアルバイトをした。
- 敬貴がアメリカに渡った翌年の明治40年春、宇都宮仙太郎がアメリカに牛を買いに来て、父金弥からの依頼で、北海道と自然風物がよく似ているウイスコンシン州・ウエストアリスのラスト牧場で牧夫として働けるよう手配をした。
- 明治40年の敬貴の日記によると、
- 4月27日 本日宇都宮氏、吉田氏に面会す。
- 4月30日 佐治君の家を引き上げ、シアトルに行き、色々とEast行きの用意をなす。
- 5月4日 本日午後9時半の汽車(注:グレート・ノーザン鉄道)に投じて出発す。
- 5月7日 午後5時 Saint Paul(注:セントポールミネソタ州の州都)に着、8時35分C,Mor,St,P.R.Y(注:ミルウォーキー鉄道)の汽車に投ず。
- 5月8日 本朝6時半、ミルウォーキーに着す。而して近きホテルに投ず、中々疲れたり。
- 5月9日 本朝ホテルボーイに聞き、12時15分の汽車にてWest Allisに行く。先ず葉書を案内として、初め着せるはRustのBrother Houseにて、之より昼食を喫し、ボギーにて一マイルばかり、目的の家に着す。此の日は、色々と労働着などを用意す。
- 5月10日 本日早朝より、搾乳し労働につきたり。先ずは道路の石のけにて、一番油を搾られたるは、実に閉口であった。案外East Eastと申して、余りに理想に駆られ過ぎたり。
- 5月12日 Sundayは牛舎の働きのみにて、少しくtimeあり、手紙を書きたり。
- 5月19日 本日は朝の仕事を終りて、ミルウォーキーに行き、少しく買物を、公園に遊び、五時帰村す。
- ラスト牧場は兄弟牧場であり、共同経営であった。兄と弟は別々に近くで牧場を経営し、150ヘクタール程度で、ホルスタインは5、60頭程度だった。敬貴が実習に入ったのは弟の方で、場主、ジュリアス・ラストはドイツ系の米国人でウイスコンシン・ホルスタイン協会の副会長をしており、一男二女がいた。
- 敬貴の一日は次のようであった。
- 朝4時起床、搾乳、牛のかたづけ、7時朝食、牛を外に出す、それがすむと厩に行く。手入れをして、鞍をつけ、馬とともに働く、昼休みが1時間、また馬を出して働きに出る、6時ごろにあがる。馬を入れる。牛を入れて食事をさせ6時半頃夕食、7時から夜の搾乳、8時半から9時頃に仕事が終わる[6]。
エピソード3
- ウイスコンシン州 州立農科大学に学ぶ
- アメリカへ渡って4年目、敬貴は札幌農学校出身ということもあり、英語さえわかればアメリカの大学へ入学できうるということになり、ウイスコンシン州の州立農科大学酪農科に入学した。大学のある州都マジソンは当時人口二万程度、酪農の中心地であっただけに、大学も試験研究所も一流中の一流の水準を持っていた[7]。
- 敬貴は後年ラスト牧場における回想を次のように語っている。
- 「私が初めて世話になった家庭(注:ラスト牧場のこと)でも、いろいろと私のために図ってくれまして、お前も折角来たんだから、やはり大学だけはやらなければうまくないだろう、夏はおれのところで働けばいいから、秋から春までは大学に行って勉強して来い、といいます。向こうに丁度大学がありましたから、三年間だけは夏働いて、秋冬春を大学で過ごしまして、もうその時には、どうやら言葉が自由になりましたが、みんなと一緒に学んで得た利益は多いと、私は思っております。それはみな、自分がその家に非常に尽くしたものですから、学費を出してくれたのです。学校を出ましてから後も、ラスト牧場に帰りまして、また相当長い期間働きましたが、常に北海道へ帰ろうということだけは、自分の念頭から離れなかった。」[8]。
家族・親族
- 妻*志津(福井県 渡辺仙太郎長女、酢醸造業山本怡仙の玄孫)
- 長男 善啓
- 次男 泰男(実業家)
- 三男 鉄雄(実業家)
- 四男 俊郎(医師)
- 長女 婦美子(官僚岩倉規夫に嫁する)
- 次女 光子(東京 官僚、政治家原文兵衛に嫁する)
- 孫 町村敬志(学者・一橋大学大学院社会学研究科教授)、町村泰貴(学者・北海道大学大学院法学研究科教授)、町村貴郎(医師)、町村英郎(医師)、美穂(東京 官僚、政治家中川雅治に嫁する)など
系譜
- 町村氏 町村家は江戸時代、代々越前藩の支藩・府中領主本多家に仕えた武士の家系だった[9]。父町村金弥は町村家9代目当主・町村織之丞の長男として生まれた。金弥は札幌農学校に学び、北海道開拓事業にその生涯を捧げ、「北海道酪農の父」といわれた人物。
┏━町村善啓 ┣━町村泰男━━━町村 泰貴 ┣━町村鉄雄 ┣━町村俊郎━┳━町村 貴郎 ┣━━婦美子 ┗━町村 英郎 ┃ ┃ ┃ 岩倉規夫 ┏━町村 敬貴 ┣━━━光子 ┃ ┣━━━━┫ ┣━━━━━━━美穂 ┃ 志津 ┃ 原文兵衛 ┃ ┃ ┃ 中川 雅治 町村織之丞━━━━━━━━町村 金弥━━━┫ ┗━━寿美子 ┃ ┣━━┳━町村 敬志 ┃ 町村末吉 ┣━町村 謙 ┃ ┗━町村 均 ┗━町村 金五 亀山孝夫 ┃ ┃ ┃ ┏━━━康子 ┃ ┣━町村忠良 ┃ ┣━町村信孝 ┃ ┣━━━君代 ┏━━━てる子 ┣━━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ 山本 悟 ┃ 小早川光郎 ┃ ┣━━ひろ子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━┻━━━まり子 ┃ ┃ 秋山 進 川崎 清造====┳━━━川崎 潔 ┃ ┗━━富士江 ┃ ┏━━━━二葉 ┃ ┃ 桑田 熊蔵━━━┫ 遠山景敏 ┃ ┗━━━千枝子 ┃ ┣━━━━━━河合良一 ┃ ┏━河合 良成 ┃ 河合 藤吉━━━┫ ┃ ┗━河合 鉄二 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━━茂子 ┃二代目川崎八右衛門 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━━千代子 ┃ ┣━━━━━━幸子 ┃ ┏━━━━道子 ┃ 山下亀三郎━━━━━山下太郎 ┣━━━━節子 ┣━━━郷 力三郎 ┣━━╋━━━━恒子 ┃ 北村 七郎━━━━━━━栄 ┣━━━━和子 ┣━━━郷 升 ┣━山下眞一郎 ┃ ┗━山下洋二郎 ┣━━━郷 芳男 郷 輝彦 ┃ ┃ ┃ 北田彦三郎 ┏━━━繁子 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━英子 ┃ 加藤祐一 ┃ ┃ ┃ 郷 純造━━━━╋━━━郷 誠之助==┳━━郷 朔雄 ┣━━━清子 ┃ ┃ ┃ ┣━郷 濬一 ┣━━━━━━━━━━┛ ┣━━━━╋━郷 誠次 ┃ ┃ ┃ ┃ ┏━稲葉 正縄━━━━━━━━英子 ┃ 正木茂次 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━佐竹 義準━━━━━━━━操子 ┗━━美津子 ┃ ┃ 岩崎弥太郎━┳==┻━━━岩崎 豊弥 ┣━━━━━━岩崎寛弥 ┃ ┃ ┗━━━━━━岩崎 久弥 ┏岩崎彦弥太 ┣━━━━━╋岩崎 隆弥 保科 正益━━━━━━━━━━━寧子 ┗岩崎 恒弥
関連項目
- 町村農場(現・株式会社町村農場)
参考文献
- 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 447、451-452頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 10-21頁
脚注
- ^ 『町村敬貴伝』35頁
- ^ 『町村金五伝』452頁
- ^ 『町村金五伝』447頁
- ^ 『町村敬貴伝』300-302頁
- ^ 『町村敬貴伝』66頁
- ^ 『町村敬貴伝』79-84頁
- ^ 『町村敬貴伝』86頁
- ^ 『町村敬貴伝』90-91頁
- ^ 『町村金五伝』 424-438頁 - 町村家の過去帳にある最古の戒名は「無門院大道善翁居士」で没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に町村次郎兵衛の名があり、10人扶持の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習をつとめていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた