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2008年6月21日 (土) 14:25時点における版
原 胤房(はら たねふさ、?-文明3年9月9日(1471年10月22日)?)は、室町時代中期の武将。原胤親の子。原胤隆・原胤継の父。受領名は越前守または越後守。
原氏は千葉氏の庶流(九州千葉氏の祖となった千葉宗胤の末裔)との説もあるが後世の創作であるとも考えられる。
享徳3年12月27日(1455年1月15日)鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことに始まる享徳の乱に乗じ千葉城を襲い、千田庄(現在の多古町)に逃れたまだ幼い当主千葉胤宣を、馬加康胤の加担を得て康正元年8月12日(1455年9月23日)に討ち、千葉氏宗家を攻め滅ぼしたものの、同年11月24日には歌人としても有名な東常縁に追われ逃亡した。
文明3年9月9日(1471年10月22日)に小弓城が上杉軍に攻められた際に戦死した「原越前入道」は受領名との一致などから胤房の事であるとされている。また、これを別人として文明11年(1479年)に91歳の長寿で没したとする説もある。
子孫・一族には下総千葉氏に仕え権勢をふるった原胤清・原胤貞父子や、甲斐武田氏に仕え、甲陽五名臣の一人に数えられる原虎胤がいる。