「モーゼス・フリート・ウォーカー」の版間の差分

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[[1883年]]に当時マイナーのノースウェスタン・リーグに参加していた[[トレド・ブルーストッキングス]]と契約し、チームの捕手を務めるようになった。同年8月10日、トレドは当時[[キャップ・アンソン]]が率いてたシンシナティ・レッドストッキングス(現カブス)とのエキシビション・ゲームの開催を行おうとしたのだが、その際ウォーカーが出場するトレドとの試合をアンソンが拒否しようとする出来事が起きている。ブルーストッキングスは[[1884年]]にアメリカン・アソシエーションに加盟、ウォーカーはこの年の5月1日の試合に出場、アフリカ系アメリカ人として初めてメジャーリーグに出場した選手となった。
 
トレドの主力投手だった[[トニー・マレーン]]はウォーカーの能力を高く評価していたものの、「黒人は嫌いだから、彼のサインは見ずに好きな球を投げていた」と語っている。ウォーカーはこの年捕手として41試合に出場<ref>他に外野手として1試合に出場している。</ref>するが、シーズン中に鎖骨を折る怪我をしてしまい、それ以降残りの試合に出場できなかった。またこの年リーグ最多となる72の[[捕逸]](パスボール)を記録している。
 
所属していたブルーストッキングスが破綻した後、ウォーカーは翌1885年以降クリーブランドやウォーターバリーなどのマイナーの球団で野球をしていた。1887年にインターナショナルリーグで[[ジョージ・ストーヴィー]]と組んだバッテリーは、アメリカのプロ野球史上最初の「アフリカ系アメリカ人同士のバッテリー」としても知られている。ただ当時はメジャーリーグやマイナーリーグで徐々に「カラーライン」が作られ、アフリカ系アメリカ人の参加を制限するマイナーリーグリーグも増えていった。ウォーカーはそれに追われるように1889年までマイナーの球団を転々としながら野球選手として活動していた。
== 関連項目 ==
*[[ウィリアム・エドワード・ホワイト]]
 
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references /></div>
 
== 出典・外部リンク ==
5,433

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