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「フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン」の版間の差分

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著書 : 倭人は黙って鬼畜米英の戦艦に零戦で凸って来い
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=== 日本語訳書 ===
=== 日本語訳書 ===
*『支那〈第1〉支那と中央アジア』(東亜研究叢書14巻)[[望月勝海]]・[[佐藤晴生]]訳、[[岩波書店]] 1942年
*『中国〈第1〉中国と中央アジア』(東亜研究叢書14巻)[[望月勝海]]・[[佐藤晴生]]訳、[[岩波書店]] 1942年
*『支那旅行日記』 [[海老原正雄]]訳、[[慶応書房]] 1943年
*『中国旅行日記』 [[海老原正雄]]訳、[[慶応書房]] 1943年
*『北支ニ於ケル黄土地域及ソノ中央亜細亜トノ関係』[[東亜研究所]] 1939年
*『北中国における黄土地域および中央アジアとの関係』[[東亜研究所]] 1939年
*『山東省山岳地質』(調査資料4号)[[土方定一]]・[[橋本八男]]訳、[[興亜院]]政務部 1940年
*『山東省山岳地質』(調査資料4号)[[土方定一]]・[[橋本八男]]訳、[[興亜院]]政務部 1940年
*『リヒトホーフェン日本滞在記―ドイツ人地理学者の観た幕末明治』[[上村直己]]訳 [[九州大学出版会]] 2013年
*『リヒトホーフェン日本滞在記―ドイツ人地理学者の観た幕末明治』[[上村直己]]訳 [[九州大学出版会]] 2013年

2023年11月9日 (木) 16:15時点における版

フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン
リヒトホーフェンの肖像とサイン
人物情報
生誕 (1833-05-05) 1833年5月5日
ドイツの旗 ドイツ
死没 1905年10月6日(1905-10-06)(72歳没)
出身校 ヴロツワフ大学ベルリン大学
学問
研究分野 地理学
研究機関 ボン大学
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フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(Ferdinand Freiherr von Richthofen1833年5月5日 - 1905年10月6日)は、ドイツ地理学者探検家。近代的地形学の分野の創設者とされ、中国の研究を通じて、シルクロードの定義を定めた。近代地形学の父と称される[1]

生涯・人物

リヒトホーフェンは、ブレスラウ大学(現ヴロツワフ大学)及びベルリン大学で学んだ。1856年学位を授与された後、地質学者として働いた。1856年から1860年にかけて、南チロルアルプス山脈)とトランシルヴァニアカルパティア山脈)で、地質学的調査を行なった。

1859年にプロイセンから東アジアへ向かったオイレンブルク使節団に随行し、中国日本シャムを回った[2]。そして1868年から1872年にかけて中国の調査を行い、それを『シナ』という著書にまとめる。その際に「ザイデンシュトラーセン(絹の道)」という言葉を初めて用いた[3]。中国行きの途中に日本に立ち寄ったほか、中国滞在中も、政情不安から1870年8月から9か月間日本に滞在した[1]

1872年にドイツへ帰国した後、リヒトホーフェンはベルリン地理学会の会長を勤めた。1875年ボン大学の地質学教授になり、1883年ライプツィヒ大学に地理学教授として移動した。1886年、リヒトホーフェンはベルリン大学に招聘された。

弟子

彼の弟子にはスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンがいる。

家族・親族

著書 

主なもの

  • "China, Ergebnisse eigener Reisen" (5 Bände mit Atlas,1877-1912)
  • "Führer für Forschungsreisender" (1886)
  • "Geomorphologische Studien aus Ostasien" (4 Hefte, 1901-03)

日本語訳書 

脚注

  1. ^ a b リヒトホーフェンの地形学北野善憲『立命館文学』第617号、立命館大学人文学会、2010年
  2. ^ 『オイレンブルク日本遠征記』新異国叢書、1969、p9
  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説”. コトバンク. 2018年1月13日閲覧。

参考文献

外部リンク