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== 生涯 ==
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[[京城]]出身。父は閔致鳳、母は[[原州元氏]]。1898年、30代にして[[大韓帝国軍]]人となり、[[鎮衛隊]][[原州]]歩兵第5大隊の[[高城郡 (江原道)|高城]]分遣隊附や春川分遣隊附勤務。1900年正校、翌1901年には特務正校(特務曹長、[[准士官|准尉]]に相当)となったのち、歩兵第5大隊本隊附<ref>{{cite web|url=http://www.yeoju.go.kr/history/jsp/Theme/Save_View.jsp?BC_ID=b1822 |title=驪州市史-名字と人物:閔肯鎬(?〜1908)(''여주시사 - 성씨와 인물: 민긍호(閔肯鎬, ?~1908)'') |publisher=驪州市史 |accessdate=2017-10-08}}</ref>。1907年、[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が退位し、大韓帝国軍の各部隊に次々と解散命令が下される。かくして8月2日に第5大隊にも解散命令が下されたが、3日後の8月5日、大隊長の洪裕馨参領が出向している間に大隊長代理の{{仮リンク|金徳済|ko|김덕제}}正尉、孫在奎参尉、韓甲復正校らと武装蜂起し、警察署などを襲撃する。[[江原道 (朝鮮八道)|江原道]]地域で募兵して義兵を起こし、関東一帯で多数の日本兵を射殺した。
[[京城]]出身。父は閔致鳳、母は[[原州元氏]]。1898年、30代にして[[大韓帝国軍]]人となり、[[鎮衛隊]][[原州]]歩兵第5大隊の[[高城郡 (江原道 1919年)|高城]]分遣隊附や春川分遣隊附勤務。1900年正校、翌1901年には特務正校(特務曹長、[[准士官|准尉]]に相当)となったのち、歩兵第5大隊本隊附<ref>{{cite web|url=http://www.yeoju.go.kr/history/jsp/Theme/Save_View.jsp?BC_ID=b1822 |title=驪州市史-名字と人物:閔肯鎬(?〜1908)(''여주시사 - 성씨와 인물: 민긍호(閔肯鎬, ?~1908)'') |publisher=驪州市史 |accessdate=2017-10-08}}</ref>。1907年、[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が退位し、大韓帝国軍の各部隊に次々と解散命令が下される。かくして8月2日に第5大隊にも解散命令が下されたが、3日後の8月5日、大隊長の洪裕馨参領が出向している間に大隊長代理の{{仮リンク|金徳済|ko|김덕제}}正尉、孫在奎参尉、韓甲復正校らと武装蜂起し、警察署などを襲撃する。[[江原道 (朝鮮八道)|江原道]]地域で募兵して義兵を起こし、関東一帯で多数の日本兵を射殺した。


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[[李殷瓚 (1868年)|李殷瓚]]が[[楊州市]]で義兵を起こした時に加わり、関東軍倡義大将になって100回の戦功を立てた。1908年2月28日、[[雉岳山]]で日本兵の不意の襲撃を受けて逮捕される。翌日2月29日、部下の義兵らが救出作戦を起こし、奪還されることを恐れた日本軍により射殺された。

2023年9月24日 (日) 03:03時点における版

閔 肯鎬(ミン・ゴンホ、朝鮮語: 민긍호1865年 - 1908年2月29日)は、李氏朝鮮末期、大韓帝国の軍人、義兵隊長・独立運動家。本貫驪興閔氏

生涯

京城出身。父は閔致鳳、母は原州元氏。1898年、30代にして大韓帝国軍人となり、鎮衛隊原州歩兵第5大隊の高城分遣隊附や春川分遣隊附勤務。1900年正校、翌1901年には特務正校(特務曹長、准尉に相当)となったのち、歩兵第5大隊本隊附[1]。1907年、高宗が退位し、大韓帝国軍の各部隊に次々と解散命令が下される。かくして8月2日に第5大隊にも解散命令が下されたが、3日後の8月5日、大隊長の洪裕馨参領が出向している間に大隊長代理の金徳済朝鮮語版正尉、孫在奎参尉、韓甲復正校らと武装蜂起し、警察署などを襲撃する。江原道地域で募兵して義兵を起こし、関東一帯で多数の日本兵を射殺した。

李殷瓚楊州市で義兵を起こした時に加わり、関東軍倡義大将になって100回の戦功を立てた。1908年2月28日、雉岳山で日本兵の不意の襲撃を受けて逮捕される。翌日2月29日、部下の義兵らが救出作戦を起こし、奪還されることを恐れた日本軍により射殺された。

死後

1962年に建国功労勳章単章が授与された。

家族

家族は安重根の助けで、豆満江を渡ってロシアに逃れた。家族はカザフスタンに住み、玄孫(孫娘の孫にあたる)のデニス・テンソチ冬季オリンピックで銅メダルを獲得している。

脚注

参考サイト