「ノート:徳川家康」の版間の差分

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:::なるほど過去にも論文があるのですね。書かれたのは「家康が源氏を称したのは関ヶ原以降である」という説だけの記述だというのは、わかりました。私としては従来説が書かれていなかったので中公新書の『近衛前久』出典で書いて、笠谷説との対比で両論併記のつもりでいたのです。それと論文が出典にならないと書いたつもりはなく、学会で笠谷説がきちんと従来説を覆すほど認められていないのではという記述です。広い意味で「~の従来の説があるが、~の理由で議論がある」と両論併記になってることを再確認しましたのでこの編集を認めたいと思います。--[[利用者:奈良たかし|奈良たかし]]([[利用者‐会話:奈良たかし|会話]]) 2020年2月24日 (月) 15:49 (UTC)
:::なるほど過去にも論文があるのですね。書かれたのは「家康が源氏を称したのは関ヶ原以降である」という説だけの記述だというのは、わかりました。私としては従来説が書かれていなかったので中公新書の『近衛前久』出典で書いて、笠谷説との対比で両論併記のつもりでいたのです。それと論文が出典にならないと書いたつもりはなく、学会で笠谷説がきちんと従来説を覆すほど認められていないのではという記述です。広い意味で「~の従来の説があるが、~の理由で議論がある」と両論併記になってることを再確認しましたのでこの編集を認めたいと思います。--[[利用者:奈良たかし|奈良たかし]]([[利用者‐会話:奈良たかし|会話]]) 2020年2月24日 (月) 15:49 (UTC)
:確認しました。学会の動向をご存知でしたら記述してください。--[[特別:投稿記録/126.28.200.44|126.28.200.44]] 2020年2月25日 (火) 13:31 (UTC)
:確認しました。学会の動向をご存知でしたら記述してください。--[[特別:投稿記録/126.28.200.44|126.28.200.44]] 2020年2月25日 (火) 13:31 (UTC)

== [[:File:Tokugawa Ieyasu2.JPG]] → [[:File:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG]] ==

{{半保護編集依頼}}

2020年11月27日 (金) 17:42時点における版

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大坂冬の陣の編集合戦について

和議の条件が内堀を含んだものか、また豊臣方が行うといった作業を徳川方が勝手に行ったか、更には和議そのものが最初から騙すためのものかで議論になりましたのでここで論じることにします。

  • 和議の条件については、当時の記録である『大坂冬陣記』『本光国師日記』に二の丸・三の丸・総構の破壊が明記され、細川忠利・浅野忠吉・毛利輝元書状にも同様の旨が記されている。
  • 豊臣側が抗議したという記述は『慶長見聞書』『元寛日記』等の後世の記録のみ記されている。受け持ちについては『大坂御陣覚書』に記述があるが、これは後世の書である上に、そこでも豊臣側の作業が伸長しないので、現場の遠国にいる者達が迷惑したのが理由としている。
  • このように和議が当初から豊臣側を騙すという説は根拠に乏しい。

これらの史料は大日本史料にも収録され、笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』にも同様の旨が記されています。以上の経緯より特別:投稿記録/49.134.168.231 さんの記述は削除されるべきと判断しました。--HI会話2013年5月1日 (水) 01:37 (UTC)[返信]

ちょっと根拠がおかしいのではないでしょうか?『大坂冬陣記』『本光国師日記』に二の丸・三の丸・総構の破壊が明記されているとあなたは書いていますが、内堀の破壊を含んでいるとは書いていません。ということは「和議の条件が内堀を含んだものか」という点に関して反論していないことになります。 そして後世の記録であること自体はその記録が偽である事とは別の話のはずです。しかもあなたは後世の記録だから、と従来説を否定している一方で、同じ後世の記録を根拠に「和議そのものは最初から騙すためのものではない」としていますが、これは二重基準ではないでしょうか。 それと語るに落ちたとはこの事でしょうか。役割分担があるのなら、徳川は自分の担当を自分のペースでやれば良い訳で、あとは豊臣方の責任。豊臣側の担当を徳川が如何なる理由で「迷惑」するのでしょうか。和平を前提にするなら迷惑を受ける理由がありません。たしかに工事の進捗あるいは程度が芳しくない状態で「迷惑」を受けるのは徳川家康です。なぜなら次に容易に攻められなくなるからです。しかしそんな事を公言するわけにもいかず、「現場の遠国にいる者達が迷惑したから」と称しているに過ぎないでしょう。それとも徳川が豊臣方の浪人を気遣って遠方の浪人が迷惑を受けているから、なんて言われるつもりでしょうか?それは失笑を禁じえないあまりに見え透いたウソ。歴史は見てきた者が居ない以上、ある程度の資料から推理するしかないわけです。 以上の理由から従来説を中心に記述すべきと考えます。定説を中心に記載するのは当然ではないでしょうか。--以上の署名のないコメントは、49.134.168.231会話/Whois)さんが 2013年5月1日 (水) 13:54‎ (UTC) に投稿したものです(HI会話)による付記)。[返信]

先ず、一つ訂正します。受け持ちについては細川忠利書状に徳川方は総構を豊臣方は二の丸・三の丸を壊し堀も埋めると記されており、覚書でなく当時の史料にも記されていました。申し訳ございません。なお、この記述により二の丸・三の丸の堀、つまり内堀も埋めることになっていたことが分かります。これにより二重基準もクリアされたことになります。
後、『大坂御陣覚書』に記されている迷惑に感じたのは家康ではなく、遠国の人数つまり従軍した大名達です。彼らは豊臣方の工事も終わらなければ帰国できないので手伝ったことになります。また、その間の工事に携わった諸大名の書状等には、豊臣方と問題が起きたとは記されていません。なお、「現場の遠国にいる者達が迷惑したから」と称しているに過ぎないでしょう」の発言は憶測以外の何者でもありません。
先述のようにこれらの内容は笠谷氏の著作に記されていますが、これまでこの説を否定した上で従来の説を唱えた話は聞きません。既に従来の説が定説ではなくなったと考えます。従来の説を載せるべきとするならば、「~の従来の説があるが、~の理由で疑問が生じる」とするべきでしょう。--HI会話2013年5月1日 (水) 14:49 (UTC)[返信]


内堀も埋めることになっていたという根拠ですが、それだけでは私の投稿を有無を言わさず削除するほどの説得力は弱いのではないでしょうか。たとえば当代記においては二の丸・三の丸破壊の記載はありません。wikipediaは独自研究を乗せる場ではありせんので、両論記載でいいのではないでしょうか。
大坂御陣覚書の件ですが、従軍した大名の都合は豊臣方には関係のない話です。諸大名が帰国できないのは徳川が決めたことであり、受け持ちの約定違反をする理由とはならないでしょう。それと憶測以外の何者でもないという事ですが、それがどうかしたのですか?としかいいようがありません。大体それを言い出せば歴史の考察はできません。当時の資料を書いた作者の思い込みや勘違い、あるいは徳川へのバイアスもあるでしょう。そんな中でわれわれは考察せざるを得ないんです。
で、実際に家康側が大義名分を探したり、本音と建前を使い分けている事例があります。主君殺しについては家康の近臣に正当性を諮問したという記録もあり、これは家康が大義名分に拘りがあるという証拠です。先の銘文の件にしても、この銘文がある鐘が現在も保存されているという事実があります。国家安康の文言が、家康を呪うものであると本気で考えていたのなら、そのような鐘は直ちに鋳潰されているはずですが、現実は違います。家康にとってこの問題は単なる難癖であり、「銘文自体は特に家康を呪うものではない」と認識していた証拠です。このような行動を取った者が本気で和平を望んで和議を結び、「現場の遠国にいる者達が迷惑したから」などと考えるでしょうか。約定違反である事を承知の上で、虚偽の名分を無理やりつけ、詐称したと考えるほうが自然ではないでしょうか。だから豊臣側の抗議に対してとぼけていた、などという記録もあるわけです。
上にも書きましたが、wikipediaは独自研究を乗せる場ではありせんので、定説を個人レベルで判断することは不適切だと思います。「~の従来の説があるが、~という説もある」とするべきでしょう。--以上の署名のないコメントは、49.134.168.231会話/Whois)さんが 2013年5月1日 (水) 17:03‎ (UTC) に投稿したものです(HI会話)による付記)。[返信]

当代記も後世の編纂史料ですので一次史料ではありません(後、当代記では三の丸破壊は記されています)。現状では、二の丸を破壊しないと記した一次史料は存在しないのが現状です。これは徳川方による二の丸・三の丸破壊に豊臣方が抗議したという記述も同様です。ただし両論併記で納得されるなら問題はありません。その場合は、一次史料、二次史料について言及するべきと考えますが。--HI会話2013年5月2日 (木) 00:56 (UTC)[返信]

当代記の件に関してはすみません、三の丸の件については勘違いでした。あくまでここは百科事典なので通説を主体にすべきと考えます。その限りにおいてはその通りで異論はありません。--以上の署名のないコメントは、49.134.168.231会話/Whois)さんが 2013年5月3日 (金) 03:23‎ (UTC) に投稿したものです(HI会話)による付記)。[返信]

では保護解除後に修正いたします。後、ノートでは署名するのがルールですので、以後は気をつけたほうが良いと思います。--HI会話2013年5月3日 (金) 03:45 (UTC)[返信]

  • 報告 建設的な対話による編集合戦状態の回避に向けた合意が成立したと思いました。お二方にはお疲れ様でした。ただいま、保護を解除しましたので合意に基づき編集をお願いします。--ろう(Law soma) 2013年5月7日 (火) 01:04 (UTC)[返信]

関連作品の位置について

徳川家康を主題、主人公とする作品群は実際にはかなりの数があり、本文の中に組み込むか、リスト記事にできるほどです。現在は削除されているものの、本来的には、関連項目の前後で収まる量ではありません。将来的にリスト記事に分離すべきです。そもそもが本文の一部であるべきものです。--Quark Logo会話2017年2月23日 (木) 19:22 (UTC)[返信]

コメント 作品と記事主題人物の論考や考察として本文にあるのならともかく、ただの作品名の羅列のリンク・リストであれば本文に置く意味がありません。数が多ければ尚の事、記事本文としては邪魔なだけです。以前議論した際に井戸端でも議題にしたところ、管理者の方の「スタイルとしては関連項目に準じた扱いでしょう」といった意見もいただきました。Quark Logoさんにおかれましては、利用者コメント依頼の原因のひとつともなっておられるようですので、「本文に置くべき」という頑なな姿勢はコミュニティとしても歓迎されているとは言い難いと思われます。
それと、マークアップや脚注もまとめて巻き戻してしまったのは、私の落ち度でその点はお詫びいたしますが、「細部を確認せずにリバートするな」などという命令語調はwikipediaにおいては礼儀に失した姿勢であり、大変不愉快なものです。--ジャムリン会話2017年2月23日 (木) 20:35 (UTC)[返信]

Wikipedia:関連項目Wikipedia:関連作品にも井戸端にもあるように、位置については結論は出ていません。一方の意見だけがあるような言い方は不適切でしょう。また、関連作品を本文部の末に置く編集をしているのは私だけではなく、多くの利用者が行っています。頑なな姿勢とは、お互い様でしょう。

数が多ければという点に関しては、脚注部の下に、関連作品がだらだらと書かれているのは、私の感覚では見苦しい感じがします。本文部の末に入れた方が、バランスを取りやすい。また関連項目とは異なるというガイドラインの設定からも、関連項目と関連作品は離した方が無難であるというのが私の意見です。あくまでも。

内容として、関連作品の節は、リスト記事と同じであり、脚注部ではなく、本文部に含まれるのが論理的であるというのも、私の意見です。

あと、命令口調については、そもそもコメント欄に長い文書が書けないので、短くすれば当然命令文になります。またジャムリンさんが、二度も[1][2]も同じミス事をされているのではっきりと書きました、三度目は3RRですし、細部に気付いていないようでした。ジャムリンさんがコメント欄に残した主張からすれば関連作品の節だけ戻せばいいでしょうし、それが筋ですし、一回目のときに「脚注がなく脚注節の前に置く必要のない」と書かれていたので、脚注を付けたにもかかわらず無反応でリバートは理不尽に思います。リバートされる側の方がそちらよりもむしろ当然ながら不愉快です。--Quark Logo会話2017年2月23日 (木) 21:17 (UTC)[返信]

コメント Quark Logoさんによる件の編集要約欄では、命令形に省略しなくて、記載できる文字数にはかなり余裕がありました。脚注にしなくてもいい文をわざわざ反映させる目的で脚注にするという恣意的行為はいかがかと思います。関連項目についての草案の関連項目に関連作品がありますので、wikioediaでは類似した項目であるという位置づけであり、内容として主題についてのことというより、主題から派生した事柄である上に、その派生に関する説明のない羅列リストにしかできないのであれば、関連項目内で充分でしょう。「Wikipedia:関連作品」にも「関連項目の項に属する一覧においても、関連する作品を列挙する限りは関連作品となります。」とあり、関連項目に含まれることすら想定した定義となっています。井戸端に寄せられた意見では、そもそも必要ないという意見までありました。関連項目も過多になれば、問題提起タグが貼られたり、別途テンプレートが作成されるなどしております。--ジャムリン会話) 2017年2月23日 (木) 22:25 (UTC)追加:--ジャムリン会話2017年2月23日 (木) 23:24 (UTC)[返信]

「関連項目に準じた扱い」についてですが、スタイルマニュアルでも関連項目は「この節は、付録節の他の位置に置かれることもあります」とあります。このように、関連項目はスタイルマニュアルで場所・位置が定められていないことが明記されている唯一の項目であり、位置が確定されていないということなのです。この点を、もちろんご存じでしょうが、確認させていただきます。だから、関連作品が関連項目と同じ扱いならば、逆に、付録節(前述の脚注部の前後と同義です)の外の位置がありえるわけです。Wikipedia:関連項目はガイドラインではないわけですが、Wikipedia:スタイルマニュアル (レイアウト)はガイドラインであるので一定の効力はあるわけです。だから、ガイドラインとしては、位置は定められていないというのがルールなのです。ある人が言っていた言い方をするならば、編集に多様性が認められる部分ということなんでしょう。平たく言えば、自由ということです。ということは、ルールで位置を定めない限り、個別の記事毎に毎回・利用者間の合意形成が必要になるというのが厳密なルールとなるはずです。--Quark Logo会話2017年2月24日 (金) 02:08 (UTC)[返信]

コメント 先程、関連作品について主に原作関係の関連性についての修正を行いました。該当記事の関連作品については「Wikipedia:井戸端/subj/「関連作品」のレイアウトにおける位置について」で私が意見を募ったあと、一時期、リストではなく関連性をもたせた文章の形になりましたが、いつの間にやら作品間の主従や関連性も判らないただの内部リンクリストに戻されていました。ただの内部リンク表であれば、あくまで二次的な派生物のタイトル集でしかないのですから、この記事に限っていえば、もっと該当人物に近い関連項目の方が重要度が高いでしょう。本文内にあるべき関連作品節とは、例えば山岡荘八のタイトルロール小説は、何本も原作とした映像作品が制作されているなど現代創作物に対する影響は大きく、作品記事には当時の社会的影響方面のみですが、倒幕から戦前までの「陰謀家」「人を誑かす利己的な狸親父」といった今日でもきかれる否定的な面もあるステロタイプ評価からの一般的イメージの転換点ともなっているとも言われ、発表当時は「家康を良く描きすぎている」「家康贔屓がすぎる」という評価も受けたらしいですが、「実は短気だった」「律儀者」といった面などが最近の研究からはむしろ実態に近いものだったのではという話も耳にします。以上の話は研究者や歴史マニアの方々の私的な媒体で散文的にしか見かけていませんが、wikipediaの出典として耐えうる論考などとしてまとめられば、本文中にあっても差し支えない内容の項目となるでしょうが、ただの内部リンク集ではとても脚注や参考文献の前にくる必然性はないと考えます。--ジャムリン会話2017年2月24日 (金) 03:21 (UTC)[返信]

「江戸幕府の支配に関して」の節について

この節は家康に関する記述ではない紫衣事件や参勤交代などを中心に扱っており、また、出典もなく執筆者の見解と思われる独自研究も散見され、信頼性にも疑問があります。「徳川家康」の記事としてこの節は必要なのでしょうか? --Y.haruo会話2017年9月20日 (水) 13:59 (UTC)[返信]

「近現代における評価」について

「近現代における評価」節なのですが、(、『徳川家康神格化への道 : 中世天台思想の展開』 や『天下人の神格化と天皇』が信頼できる情報源であることに異論はありませんが)全体として山岡荘八の小説や池宮彰一郎の小説の小説、司馬遼太郎の小説(のあとがき)といったものでの扱われ方が中心となっています。これは歴史上の人物としての徳川家康の「評価」というより、「創作作品における描かれ方」といった内容ではないでしょうか。また、武光誠氏は日本史研究者とはいえ、古代史が専門ですし、武光誠#著書にあるような著書のタイトルや冊数からしても、信頼性に疑問があります。マイケル・アームストロング氏はコラムニストですので、その評価を載せる必要はないようにも思います(WP:RSWP:IINFO)。 節の名前を「創作作品における描かれ方」に変えることを提案します。--伊佐坂安物会話/履歴2018年2月3日 (土) 03:13 (UTC)[返信]

コメント 主旨には概ね賛成ですが、学術的な評価と、創作作品の描かれ方・一般的な受容評価に別けても良いのではないでしょうか。--ジャムリン会話2018年2月3日 (土) 05:43 (UTC)[返信]
コメント 私も趣旨には賛成ですが、ジャムリンさんの意見と同様で「近現代における評価」節は必要で分けるべきだと思います。ただし、そのうち「一般的な受容評価」として社会的な評価を別にするのはおかしいと思います。これで問題なのは、明治政府が撒いたとされる徳川幕府と「狸おやじ」との最近までの悪評から、山岡荘八の小説『徳川家康』から再評価が始まったのは事実なのです。ただし、他の小説は評価に関係はないはずです。なお、武光誠氏は古代史が専門ですが、戦国江戸時代関係の本を13冊も出していて読み物書でタイトルはともかく、歴史学者だし無碍に否定すべきとは思えません。マイケル・アームストロング氏は専門家でもないし、言われるとおりだと思います。--奈良たかし会話2018年2月3日 (土) 06:13 (UTC)[返信]
コメント お二方ともコメントありがとうございます。学術的な「近現代における評価」節が必要なのは皆様の仰るとおりだと思います。とりあえずマイケル・アームストロング氏による評価が不要であることは議論の余地がなさそうなので除去しました。--伊佐坂安物会話/履歴2018年2月9日 (金) 15:50 (UTC)[返信]

源氏復姓時期の慶長年間吉良系図改修について

利用者‐会話:126.28.200.44少し編集合戦になりかけていますが、そもそもこの事項に議論があるからと言って、両論併記の原則を無視して別の説に否定的に移動させて(別の説への転記であるし、復姓の時期に議論があることを確認してください)というのはおかしいでしょう。笠谷和比古説はまだ論文しかなく、復姓の時期や「秀吉が征夷大将軍との日本国内で関西関東で二重権力に配置しようとした」というのは、学会でも十分な議論はないと思います。「~の従来の説があるが、~の理由で議論がある」と両論併記にすべきでしょう。--奈良たかし会話2020年2月24日 (月) 12:26 (UTC)[返信]

奈良さん、まずこの点を確認させてください。

  1. 両論併記にすべき←そもそも私が記述を移動する前には「家康が源氏に改姓したのは関ヶ原の戦いの後」という趣旨の記述しかありません。これは両論併記の状態でしたか。
  2. 基本的に家康の姓氏については渡辺世祐「徳川氏の姓氏に就いて」や星野恒「三位中将藤原家康」などの昔から、論文で検討されている話です。家康の姓氏のみを扱った単著は実在しますか。出典に使われていた中公新書の『近衛前久』(1994年)はそれに該当する単著に該当しますか。
  3. さらに言えば当該論文は『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版 2000年)に所収されています。なぜ論文しか無いと判断されたのですか。
  4. 私が記述したのは「家康が源氏を称したのは関ヶ原以降である」という説についてであり、笠谷氏が源氏復姓の理由について述べているのはもともとの記述にあったものです。今回私はそれを補足したのみです。さらに「笠谷和比古」の個人的な見解であることを明記しています。
  5. 復姓の時期に関しての「十分な議論」というのはどの程度を指しますか。壬生家文書や家康の朱印状は偽書だという説が出ていますか。反論の論文があるのでしたらそれを述べてください。論文は出典にならないという意見をお持ちでしたら単著で示してください。--126.28.200.44 2020年2月24日 (月) 15:25 (UTC)(修正)--126.28.200.44 2020年2月24日 (月) 15:25 (UTC)[返信]
なるほど過去にも論文があるのですね。書かれたのは「家康が源氏を称したのは関ヶ原以降である」という説だけの記述だというのは、わかりました。私としては従来説が書かれていなかったので中公新書の『近衛前久』出典で書いて、笠谷説との対比で両論併記のつもりでいたのです。それと論文が出典にならないと書いたつもりはなく、学会で笠谷説がきちんと従来説を覆すほど認められていないのではという記述です。広い意味で「~の従来の説があるが、~の理由で議論がある」と両論併記になってることを再確認しましたのでこの編集を認めたいと思います。--奈良たかし会話2020年2月24日 (月) 15:49 (UTC)[返信]
確認しました。学会の動向をご存知でしたら記述してください。--126.28.200.44 2020年2月25日 (火) 13:31 (UTC)[返信]