ノート:徳川家康/過去ログ2

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長男?[編集]

えー、いつの間にか広忠の長男と断定されておりますが、これって研究史上では結論は出てるんでしょうか。松平広忠を見ると家康との長幼順が明らかでない異母兄弟の記述がありますが。--Arawodas 2009年3月29日 (日) 07:22 (UTC)

具体的に、家康より先に生まれた可能性のある男子はいるのでしょうか?広忠の頁ではいまいち分かりづらいのですが・・・--118.6.131.108 2009年3月31日 (火) 09:50 (UTC)

家康が長男なのは新人物往来社「徳川家康辞典」で説明されています。--HI 2009年4月1日 (水) 06:39 (UTC)

『徳川家康事典コンパクト版』(新人物往来社)(HIさんの挙げておられるものでしょうか)によると、家康の同父(異母)兄弟として松平忠政・樵暗恵最・内藤信成が挙げられており(ここまでは松平広忠にも記載があります)、うち忠政は所伝によると1541年生まれで家康より年長とされます。ただし同書の該当部分(「兄弟姉妹」節)の著者林亮勝氏は忠政を含め三人とも「疑問は多い」としています。しかしながら同書では家康を「長男」と明記した表現はなく、巻末の年表で「嫡子」と書かれているだけでした。結局専門家ですら慎重を期して長男と断定するのは避けているわけですから、wikipediaが先走って「長男」と書くのは時期尚早ではないでしょうか。「長男」表記を除去して嫡男(嫡子)とだけ書くのが妥当と思います。--Arawodas 2009年4月2日 (木) 11:54 (UTC)

了解しました。--HI 2009年4月2日 (木) 12:56 (UTC)

半保護解除依頼[編集]

半保護されるに至った議論は終結したように思えるのですが、保護解除依頼してはいかがでしょうか。--えむかとー 2009年4月18日 (土) 09:41 (UTC)

解除依頼は誰が出してもよいものですから、えむかとーさん御自身で依頼される方が良いのでは? -- NiKe 2009年4月19日 (日) 00:20 (UTC)
NiKeさんに何か勘違いがあるように思います。えむかとーさんの発言は「誰か依頼して」という主旨のものではなく、解除依頼の提案ではないでしょうか。「自分でやれ」は少々的外れかと存じます。--cpro 2009年4月20日 (月) 07:10 (UTC)
すみません、ここで提案されているのに気付かず、保護解除依頼を提出してしまいました。上記の議論を見れば問題が解消されていることは明らかなので直接依頼してしまいましたが、依頼前に合意を得ておくことは保護解除を確実にする有効な手段ですので、今後もお手数でなければ、保護解除へのご協力をお願いいたします。--cpro 2009年4月20日 (月) 07:10 (UTC)

用語等[編集]

「薨去」を「死去」に直したところ、差し戻された方がいらっしゃったのでメモを残します。私の立場は、NPOV の立場から、特定の位にあった人物について特定の用語を使うことは、特に一般に普及しているような場合(「崩御」等)を除いてふさわしくないというものです。何をもって「一般」とするかについては異論があるでしょうが、ソース(一般の百科事典での用例等)がありましたら意見を変えることにやぶさかではないので、ご提示願えればと思います。

その他、名前について表記のテンプレートを外しましたが、こちらはすでにセクションがありますので、そちらをご参照ください。--竹田 2009年7月10日 (金) 08:41 (UTC)

落胤について[編集]

まず「落胤?」と言う書き方は百科事典の記事としてどうかと思います。落胤説がある人物についても、

  • 落胤であったと伝わる人物
    1. 一部の系図 (『幕府祚胤伝』)に記載がある人物(松平民部小笠原権之丞
    2. 墓石調査などの物的証拠で推測されている人物(永見貞愛
    3. 信憑性が定かでない史料に記載がある人物(2代後藤庄三郎
    4. 俗説の類とされる人物(鈴木一蔵
  • 落胤との風説があったと伝わる人物
    1. 風説が流布されていたとする史料がある人物(土井利勝
    2. 風説が流布されていたとする資料(近年の人物事典等)がある人物(井伊直孝松平康重内藤政長、2代大久保主水)
    3. 風説があったかどうかもわからない人物(豊臣秀頼

伝わるって表現はまずいですが(仮に書いたのでご容赦下さい)、大凡、上記のように分類されると思うのですが、どの程度の範囲までが「落胤」に記載されるのが百科事典として相応しいと思いますか?--61.197.34.237 2010年2月15日 (月) 08:03 (UTC)

将軍宣下の場所について[編集]

報告征夷大将軍節部分の「家康は二条城で将軍宣下を受け」という部分にWikipedia:「要出典」をクリックされた方へを付けさせていただきました。私の持っております文献『信長・秀吉・家康の城』のP.71に「家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた」とあり、二条城ではなく伏見城と記載されており、他の伏見城の文献にも将軍宣下は伏見城でとの記載が見受けられます。また創建のページによると、伏見城では「将軍宣下」、二条城では「拝賀の礼」と記載されており、伏見城が正確ではないかと思います。ただ、インターネットで調べますと「二条城で将軍宣下を受け」という記載が見受けられましたので、二条城で将軍宣下を受けたという説もあるかも、と思っております。そこで、約1カ月間の経過期間をみまして出典明記が難しければ、『信長・秀吉・家康の城』の記述に変更させていただければと思います。--ブレイズマン 2010年4月11日 (日) 16:08 (UTC)

報告この件気になっており、追加で文献調査をしていますが、京都埋蔵文化財研究所が発行しています発掘調査現地説明会資料の「伏見関係略年表」によりますと「慶長8年2月12日 徳川家康、伏見城で征夷大将軍の宣旨」とありますので、伏見城が正しいと思われますが、要出典の上段部分に、伏見城で「家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した」と記載があり、ならば将軍宣下は伏見城ではないかと思うのですが、宣旨は伏見城で、将軍宣下は二条城でとするならば、記載に誤りがあるとまでは言えないのかな、とも思えます。本ページには参考文献の記載がなく、Wikipedia:検証可能性が難しいのですが、私自身でも文献を探してみたいと思います。--ブレイズマン 2010年4月12日 (月) 06:21 (UTC)
報告ノート:二条城#将軍宣下の場所についてでも同様の議論をしておりますので、詳細を御存じ方の情報を待ちしています。--ブレイズマン 2010年4月15日 (木) 08:37 (UTC)

大日本史料で家康将軍就任の事は記述されていますので、一度ご覧になってはいかがでしょうか http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html こちらのデータベース検索から大日本史料総合データベースで検索するとご覧になれます。--HI 2010年4月15日 (木) 10:35 (UTC)

コメント情報提供有難うございます。調べましたら「慶長8年3月27日、勅使を二条城に遣し、将軍宣下及び歳首に依りて」とあります。現在の本文は「3月21日、家康は二条城で将軍宣下を受け」としているので、この記述は正確ではないと思います。ただ、『大日本史料総合データベース』を出典とするのは難しいと思いますので、私も文献調査を行いと思います。--ブレイズマン 2010年4月15日 (木) 11:52 (UTC)
チェック 出典明記が行われませんでしたので、上記精査内容に基づき変更させていただき、要出典テンプレートも除去しました。--ブレイズマン 2010年5月20日 (木) 07:06 (UTC)

伝記部分について[編集]

すでに過去に議論されているかもしれませんが、伝記部分が長すぎる印象を受けます。わたしは武田氏との関係から加筆を行いたいのですが、武田氏について多少知っている立場からすると、政治的・外交的事情など必要な情報が欠けている割には、合戦や事件などの日時や固有名詞であるとかディティールが詳細すぎる印象をもちます。現状の伝記部分で記されている情報は「すべて必要」であると思いますが、本記事ですべての情報を記してしまうのは、徳川家康という超重要人物の生涯を簡略に把握できないという問題点を含んでしまうことであると思います。

わたしは、合戦の具体的な事情であるとかは脚注や他記事への誘導・アウトソーシングを行い、合戦であれば大まかな経緯と意義だけを簡略に記し、脚注で「何々合戦の経緯については・・を参照」と誘導し、記事の軽量化を図っていく必要があるものであると思います。--でここ 2010年6月7日 (月) 17:18 (UTC)

人質時代の家康について[編集]

人質としての処遇を義元の好意による、とする説?が若干気にかかります。まず従来は人質時代を忍耐の日々とするのが通説、とのことですが、これは実証史学的な通説というよりは、近世に確立した家康公伝による理解といったほうが正確ではないでしょうか。近代には実証史学がスタートして、おそらく神君家康公伝を脱却した再検討がスタートしたと思うのですが、脚注になっている一般向け歴史雑誌の部分を読んでも、これは旧説から新説への転換というよりは、実証主義的手法で国衆としての徳川氏の立場が検討されている、ということであるように思われます。

管見の限りでは、戦国大名の国衆懐柔のあり方としては一般的なのではないでしょうか。これを過酷とするか厚遇とするかはあまり実証史学的なテーマではないですし、この点を検討するとしたら戦国期の人質のあり方といった一般論に展開せねばならないと思います。この点は研究が存在しないかもしれません。

ただ、これを義元の好意とする見解はどうだろうと思います。実証主義的に当主に好意があったかどうかはそもそもテーマとして無いと思いますし、今川氏と三河徳川氏・織田氏との関係は外交・政治ですから、既存の所論においても政治的状況の中で当然論を勧めるものと思われます。引用されているのは一般向け読み物の義元論ですから好意であったのではないかとしているのかもわかりませんが、引用部分だけ見ると好意であるかどうかは説?の中核でないように思えるのですが。--でここ 2011年3月6日 (日) 11:08 (UTC)

『義元の好意~説が唱えられている。』に対する出典は、ある説の一部として厚遇されていたかのようにも受け取れる表現があるだけで、実際に厚遇されていたか否かについて掘り下げた内容ではないものを、その表現が使われているからという理由だけで厚遇されていたという内容が検証可能であるかのようにしているように見受けられます。『順当に評価すれば~厚遇である。』は、明らかに独自研究です。一体誰の評価なのか不明ですし、厚遇だと断言する根拠がありません。--114.165.5.234 2011年3月18日 (金) 15:59 (UTC)

関連作品について[編集]

家康を主人公、あるいはそれに準じる程度の扱いのある作品ならまだしも、単に1人のキャラクターとして登場している程度の作品を関連作品とする必要は無いと思いますが、如何でしょうか?1キャラクターとして家康が登場している程度の作品を全て記していくことになると、戦国時代を取り扱う作品の多くが家康の関連作品になってしまいます。

特に映画やテレビドラマなどの記述が多く見られるようですが、それらの多くは家康を題材にしたものではありません。『太閤記、独眼竜政宗、武田信玄、織田信長』などまで記されていますが、果たしてこれらが家康の関連作品と言えるでしょうか?これらが家康の関連作品だとすると、これらの原作小説なども関連作品となってしまいませんか?これらはむしろ、家康を演じた俳優を記すことが主な目的のように感じます。

仮にこれらを記すとしたら、『関連作品』ではなく、『家康を演じた俳優』などとする方が相応しい気がしますが、ウィキペディアはデータベースではありませんし、徳川家康という人物の情報としては特筆性に欠けると思えます。--114.164.203.125 2011年9月5日 (月) 14:11 (UTC)

関連作品には家康が主人公のものしかないように思われますが、どれのことを言ってるんでしょうか。--Blue-flame 2011年9月8日 (木) 06:47 (UTC)

とりあえず削除させて頂いたこれらの作品のことです。削除したところリバートされましたのでここで議論すべきかと思いましたが、その後リバートされた方から特にコメントは無いようです--123.224.81.26 2011年9月9日 (金) 22:47 (UTC)

賛成 「徳川家康」の記事としては、徳川家康が主役級の扱いである作品でない限り、創作作品に関する言及は不要だと思います。「WP:N#NCONTENT」でも、「百科事典の記事は、その主題に関する一般的な知識の概要であるということを心に留めておいてください。 可能な限り全ての詳細なものを完璧に説明するものではありません。」と示されていますので。徳川家康が登場するすべての作品、というようなトリビアは、百科事典の記事としてふさわしいものではないと思います。--M.F 2011年11月29日 (火) 06:33 (UTC)

「偽」を入れるべきか[編集]

ここのところ、家康が源氏を称したことを、わざわざ「偽称」と書き直されているIPの利用者がいらっしゃいます。私が「「偽」の可能性が極めて高いとは認識していますが末裔が現に祭祀しているのに定義文で断定するのは如何か」と要約欄に入れて「偽」を除去しても、繰り返し復帰しています。私も本当に松平氏が源氏の血統であったかには強い疑問を抱いておりますし、これは一般的にも常識に近いものとは思いますが、何百年も前の人物のDNA検査をすることも困難であり、通常は「複数の研究者は賀茂氏あるいは藤原氏と考えている[出典]」のように書けば足りると思います。

実際に現在も徳川家の祭祀を受け継ぐ方がいらっしゃって、そして新田氏をも先祖として供養している現実を考えると、明確な出典のないままでの「偽」の使用には躊躇せざるを得ません。皆さんのご意見をお伺いします。--ろう(Law soma) D C 2011年10月20日 (木) 00:14 (UTC)

DNAと「氏」は関係ないと思います。もっと言えば養子なども当然のように認められているので姓ですら関係ないと思います。まして征夷大将軍になっているということは、天皇が源氏であると認めているということですよね。逆に言うと、氏なんてどうせほとんどは偽称から始まっているんでしょうし、、、要するに当時の事実上の最高権力者が源氏を称したわけですから、偽かどうかはもうどうでもいいし、わざわざ「偽称」と入れるべきではないと思います。--プリズム11 2011年10月20日 (木) 01:07 (UTC)
おっしゃるとおりDNAと氏は関係ありません。言いたかったことは、その家でどのように信じられ、周囲がどう思っているかが重要であって、実際にその家系が誰の子孫かなどということは誰にも分からないということです。書けるのは、○年に朝廷から改姓が認められた、とか○年に○氏と称したとかでしょう。なお、源氏でなくとも征夷大将軍になっている前例は多くあります。天皇が源氏と認めていたのは当時の辞令(口宣案)からも明らかなんですけどね。--ろう(Law soma) D C 2011年10月25日 (火) 00:58 (UTC)
◆今度は「仮冒」に書き直してこられました。同じ意味とは言え系図研究用語ですし、ニュアンスとしては幾分弱まったのでrvはしませんが、出典は必要かと思います。多くの記事でも「仮冒とされている」「仮冒とする説がある」となっており、ほとんどは系図研究者による言及があるはずです。--ろう(Law soma) D C 2011年11月15日 (火) 12:09 (UTC)

私が申し上げたいのは、ここウィキペディアに措いて、「実際に現在も徳川家の祭祀を受け継ぐ方がいらっしゃって、そして新田氏をも先祖として供養している現実」に対し、ある種の感情を含んだ配慮をした結果としての記載にする必要など無いのでは、と言う事です。 「偽」を入れるべきだとは申しませんが、「仮冒」に修正された時点での記載内容(「一説に、これは自分の血筋をよりよく見せるための自称であり、実際には加茂氏、在原氏ともされる」の注釈を含む)が妥当ではなかろうかと思います。——以上の署名の無いコメントは、121.112.218.221ノート/Whois)さんが 2011年12月12日 (月) 12:45 (UTC) に投稿したものです(ろう(Law soma) D Cによる付記)。

「偽称」と「仮冒」は同意語ですよ。せめて論理を構成して下さい。それから「感情を含んだ配慮」をしているのはあなたの方であるように見えます。氏については「偽称」でない方が珍しいと思いますし、誰も「一部の例外を除きほぼ全部本当」なんて思っていないでしょう。--プリズム11 2011年12月12日 (月) 14:22 (UTC)

このノートを読む限り、現段階の論点は、同義語かどうかではなく、その言葉から受けるニュアンス如何に変化しているように思えます。 そして「偽称」という言葉を「仮冒」に変える事によってそのニュアンスが弱まったと。私もそれには同感ですので、その点を尊重した上で編集したのですが。 それから「」についての事に措いて、「氏なんてどうせほとんどは・・・」と仰るような方の編集こそブロックされるべきではと思います。また、「認めない」とも書かれて記事の取り消しをされておりますが、ウィキペデイアの記事を編集する事に貴方の認可は必要ないと思うのですが、この点について如何でしょうか。--121.112.218.221 2011年12月12日 (月) 15:07 (UTC)

121.112.218.221さん、応答ありがとうございます。私の編集に対し同意頂きありがとうございます。おっしゃることは分かるのです。「現に祭祀云々供養云々」は言葉のアヤでして、極論だったかもしれません。ただ、Wikipediaは客観的、中立的であるべきであり、方針にもその旨が謳われておりますので、せめて「仮冒とする説がある」とか「一般的には仮冒とする意見が多い」等として、それぞれ出典を付けるべきだとの意見は変わりません。これは朝臣においても同じです。ここでは折角合意に達しようとしているのに、あちらでは依然「改竄・詐称」とされているのは腑に落ちません。
本音を言いますと、氏族記事では往々にして、子孫と称する方々からのクレームが付いて系図上の公式家系や口伝等による一方的な編集がされることがあります。各家の口伝に対する、多少なりとも批判的な文章には、きちんと出典を付けた方が、のちのちのクレームを避けるためには有用かと思います。その辺りをご賢察いただければ幸いです。
プリズム11さん、私も伝承されている家系が全て正しいなどとは思っておりませんし、ほとんどが所謂仮冒なのだろうとも理解しております。この点、意見が近いと思います。
ただ、Wikipediaは意見の対立を対話により解決し、中立的な表現にしていくことで記事を編集する場所ですので、私としては、121.112.218.221さんの編集でも許容できるという点だけはご了解ください。
なお、一点だけ。プリズム11さんが今の時点でブロックされることは方針上ありません。--ろう(Law soma) D C 2011年12月13日 (火) 00:21 (UTC)
(苦笑)Wikipediaは意見の対立を対話により解決し、中立的な表現にしていくことで記事を編集する場所ですので、ノートで疑問を提示しているのにそれを無視して書き換えを続ける行為はルール上認められません。--プリズム11 2011年12月14日 (水) 15:28 (UTC)
121.112.218.221さんがプリズム11の発言に行なった一部削除を復旧します。議論をしている相手の発言を変更することは改竄と見なされることもありますので今後厳重に注意して下さい。--プリズム11 2011年12月14日 (水) 16:07 (UTC)
  • 121.112.218.221さんに同意します。「氏なんてどうせほとんどは・・・」というまったく独自研究を開陳するPrism11 VYB05736氏には議論を避けていただきたいですね。--三階菱 2011年12月14日 (水) 15:14 (UTC)
(苦笑)逆恨みからストーカーなんぞしている暇があるのならWikipedia:コメント依頼/三階菱に対応して来なさい。--以上の署名のないコメントは、Prism11 VYB05736会話投稿記録)さんが 2011年12月14日 (水) 15:23(UTC) に投稿したものです(プリズム11による付記)。

直ぐアタマに血が上ってしまって署名も忘れ(これこそまさに苦笑)、相手構わず絡んでくるようなネット中毒者プリズム某は皆さん放っておきましょうよ。--218.33.246.67 2011年12月17日 (土) 02:34 (UTC)

三階菱への呼びかけであると思われるので情報提供しておきます。三階菱は1年間の長期ブロックになりました。--プリズム11 2011年12月18日 (日) 22:10 (UTC)

「源氏と仮冒した」について、出典をお願いできないでしょうか。--プリズム11 2012年1月10日 (火) 08:19 (UTC)

大坂冬の陣の編集合戦について[編集]

和議の条件が内堀を含んだものか、また豊臣方が行うといった作業を徳川方が勝手に行ったか、更には和議そのものが最初から騙すためのものかで議論になりましたのでここで論じることにします。

  • 和議の条件については、当時の記録である『大坂冬陣記』『本光国師日記』に二の丸・三の丸・総構の破壊が明記され、細川忠利・浅野忠吉・毛利輝元書状にも同様の旨が記されている。
  • 豊臣側が抗議したという記述は『慶長見聞書』『元寛日記』等の後世の記録のみ記されている。受け持ちについては『大坂御陣覚書』に記述があるが、これは後世の書である上に、そこでも豊臣側の作業が伸長しないので、現場の遠国にいる者達が迷惑したのが理由としている。
  • このように和議が当初から豊臣側を騙すという説は根拠に乏しい。

これらの史料は大日本史料にも収録され、笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』にも同様の旨が記されています。以上の経緯より特別:投稿記録/49.134.168.231 さんの記述は削除されるべきと判断しました。--HI会話2013年5月1日 (水) 01:37 (UTC)

ちょっと根拠がおかしいのではないでしょうか?『大坂冬陣記』『本光国師日記』に二の丸・三の丸・総構の破壊が明記されているとあなたは書いていますが、内堀の破壊を含んでいるとは書いていません。ということは「和議の条件が内堀を含んだものか」という点に関して反論していないことになります。 そして後世の記録であること自体はその記録が偽である事とは別の話のはずです。しかもあなたは後世の記録だから、と従来説を否定している一方で、同じ後世の記録を根拠に「和議そのものは最初から騙すためのものではない」としていますが、これは二重基準ではないでしょうか。 それと語るに落ちたとはこの事でしょうか。役割分担があるのなら、徳川は自分の担当を自分のペースでやれば良い訳で、あとは豊臣方の責任。豊臣側の担当を徳川が如何なる理由で「迷惑」するのでしょうか。和平を前提にするなら迷惑を受ける理由がありません。たしかに工事の進捗あるいは程度が芳しくない状態で「迷惑」を受けるのは徳川家康です。なぜなら次に容易に攻められなくなるからです。しかしそんな事を公言するわけにもいかず、「現場の遠国にいる者達が迷惑したから」と称しているに過ぎないでしょう。それとも徳川が豊臣方の浪人を気遣って遠方の浪人が迷惑を受けているから、なんて言われるつもりでしょうか?それは失笑を禁じえないあまりに見え透いたウソ。歴史は見てきた者が居ない以上、ある程度の資料から推理するしかないわけです。 以上の理由から従来説を中心に記述すべきと考えます。定説を中心に記載するのは当然ではないでしょうか。--以上の署名のないコメントは、49.134.168.231会話/Whois)さんが 2013年5月1日 (水) 13:54‎ (UTC) に投稿したものです(HI会話)による付記)。

先ず、一つ訂正します。受け持ちについては細川忠利書状に徳川方は総構を豊臣方は二の丸・三の丸を壊し堀も埋めると記されており、覚書でなく当時の史料にも記されていました。申し訳ございません。なお、この記述により二の丸・三の丸の堀、つまり内堀も埋めることになっていたことが分かります。これにより二重基準もクリアされたことになります。
後、『大坂御陣覚書』に記されている迷惑に感じたのは家康ではなく、遠国の人数つまり従軍した大名達です。彼らは豊臣方の工事も終わらなければ帰国できないので手伝ったことになります。また、その間の工事に携わった諸大名の書状等には、豊臣方と問題が起きたとは記されていません。なお、「現場の遠国にいる者達が迷惑したから」と称しているに過ぎないでしょう」の発言は憶測以外の何者でもありません。
先述のようにこれらの内容は笠谷氏の著作に記されていますが、これまでこの説を否定した上で従来の説を唱えた話は聞きません。既に従来の説が定説ではなくなったと考えます。従来の説を載せるべきとするならば、「~の従来の説があるが、~の理由で疑問が生じる」とするべきでしょう。--HI会話2013年5月1日 (水) 14:49 (UTC)


内堀も埋めることになっていたという根拠ですが、それだけでは私の投稿を有無を言わさず削除するほどの説得力は弱いのではないでしょうか。たとえば当代記においては二の丸・三の丸破壊の記載はありません。wikipediaは独自研究を乗せる場ではありせんので、両論記載でいいのではないでしょうか。
大坂御陣覚書の件ですが、従軍した大名の都合は豊臣方には関係のない話です。諸大名が帰国できないのは徳川が決めたことであり、受け持ちの約定違反をする理由とはならないでしょう。それと憶測以外の何者でもないという事ですが、それがどうかしたのですか?としかいいようがありません。大体それを言い出せば歴史の考察はできません。当時の資料を書いた作者の思い込みや勘違い、あるいは徳川へのバイアスもあるでしょう。そんな中でわれわれは考察せざるを得ないんです。
で、実際に家康側が大義名分を探したり、本音と建前を使い分けている事例があります。主君殺しについては家康の近臣に正当性を諮問したという記録もあり、これは家康が大義名分に拘りがあるという証拠です。先の銘文の件にしても、この銘文がある鐘が現在も保存されているという事実があります。国家安康の文言が、家康を呪うものであると本気で考えていたのなら、そのような鐘は直ちに鋳潰されているはずですが、現実は違います。家康にとってこの問題は単なる難癖であり、「銘文自体は特に家康を呪うものではない」と認識していた証拠です。このような行動を取った者が本気で和平を望んで和議を結び、「現場の遠国にいる者達が迷惑したから」などと考えるでしょうか。約定違反である事を承知の上で、虚偽の名分を無理やりつけ、詐称したと考えるほうが自然ではないでしょうか。だから豊臣側の抗議に対してとぼけていた、などという記録もあるわけです。
上にも書きましたが、wikipediaは独自研究を乗せる場ではありせんので、定説を個人レベルで判断することは不適切だと思います。「~の従来の説があるが、~という説もある」とするべきでしょう。--以上の署名のないコメントは、49.134.168.231会話/Whois)さんが 2013年5月1日 (水) 17:03‎ (UTC) に投稿したものです(HI会話)による付記)。

当代記も後世の編纂史料ですので一次史料ではありません(後、当代記では三の丸破壊は記されています)。現状では、二の丸を破壊しないと記した一次史料は存在しないのが現状です。これは徳川方による二の丸・三の丸破壊に豊臣方が抗議したという記述も同様です。ただし両論併記で納得されるなら問題はありません。その場合は、一次史料、二次史料について言及するべきと考えますが。--HI会話2013年5月2日 (木) 00:56 (UTC)

当代記の件に関してはすみません、三の丸の件については勘違いでした。あくまでここは百科事典なので通説を主体にすべきと考えます。その限りにおいてはその通りで異論はありません。--以上の署名のないコメントは、49.134.168.231会話/Whois)さんが 2013年5月3日 (金) 03:23‎ (UTC) に投稿したものです(HI会話)による付記)。

では保護解除後に修正いたします。後、ノートでは署名するのがルールですので、以後は気をつけたほうが良いと思います。--HI会話2013年5月3日 (金) 03:45 (UTC)

  • 報告 建設的な対話による編集合戦状態の回避に向けた合意が成立したと思いました。お二方にはお疲れ様でした。ただいま、保護を解除しましたので合意に基づき編集をお願いします。--ろう(Law soma) 2013年5月7日 (火) 01:04 (UTC)

関連作品の位置について[編集]

徳川家康を主題、主人公とする作品群は実際にはかなりの数があり、本文の中に組み込むか、リスト記事にできるほどです。現在は削除されているものの、本来的には、関連項目の前後で収まる量ではありません。将来的にリスト記事に分離すべきです。そもそもが本文の一部であるべきものです。--Quark Logo会話2017年2月23日 (木) 19:22 (UTC)

コメント 作品と記事主題人物の論考や考察として本文にあるのならともかく、ただの作品名の羅列のリンク・リストであれば本文に置く意味がありません。数が多ければ尚の事、記事本文としては邪魔なだけです。以前議論した際に井戸端でも議題にしたところ、管理者の方の「スタイルとしては関連項目に準じた扱いでしょう」といった意見もいただきました。Quark Logoさんにおかれましては、利用者コメント依頼の原因のひとつともなっておられるようですので、「本文に置くべき」という頑なな姿勢はコミュニティとしても歓迎されているとは言い難いと思われます。
それと、マークアップや脚注もまとめて巻き戻してしまったのは、私の落ち度でその点はお詫びいたしますが、「細部を確認せずにリバートするな」などという命令語調はwikipediaにおいては礼儀に失した姿勢であり、大変不愉快なものです。--ジャムリン会話2017年2月23日 (木) 20:35 (UTC)

Wikipedia:関連項目Wikipedia:関連作品にも井戸端にもあるように、位置については結論は出ていません。一方の意見だけがあるような言い方は不適切でしょう。また、関連作品を本文部の末に置く編集をしているのは私だけではなく、多くの利用者が行っています。頑なな姿勢とは、お互い様でしょう。

数が多ければという点に関しては、脚注部の下に、関連作品がだらだらと書かれているのは、私の感覚では見苦しい感じがします。本文部の末に入れた方が、バランスを取りやすい。また関連項目とは異なるというガイドラインの設定からも、関連項目と関連作品は離した方が無難であるというのが私の意見です。あくまでも。

内容として、関連作品の節は、リスト記事と同じであり、脚注部ではなく、本文部に含まれるのが論理的であるというのも、私の意見です。

あと、命令口調については、そもそもコメント欄に長い文書が書けないので、短くすれば当然命令文になります。またジャムリンさんが、二度も[1][2]も同じミス事をされているのではっきりと書きました、三度目は3RRですし、細部に気付いていないようでした。ジャムリンさんがコメント欄に残した主張からすれば関連作品の節だけ戻せばいいでしょうし、それが筋ですし、一回目のときに「脚注がなく脚注節の前に置く必要のない」と書かれていたので、脚注を付けたにもかかわらず無反応でリバートは理不尽に思います。リバートされる側の方がそちらよりもむしろ当然ながら不愉快です。--Quark Logo会話2017年2月23日 (木) 21:17 (UTC)

コメント Quark Logoさんによる件の編集要約欄では、命令形に省略しなくて、記載できる文字数にはかなり余裕がありました。脚注にしなくてもいい文をわざわざ反映させる目的で脚注にするという恣意的行為はいかがかと思います。関連項目についての草案の関連項目に関連作品がありますので、wikioediaでは類似した項目であるという位置づけであり、内容として主題についてのことというより、主題から派生した事柄である上に、その派生に関する説明のない羅列リストにしかできないのであれば、関連項目内で充分でしょう。「Wikipedia:関連作品」にも「関連項目の項に属する一覧においても、関連する作品を列挙する限りは関連作品となります。」とあり、関連項目に含まれることすら想定した定義となっています。井戸端に寄せられた意見では、そもそも必要ないという意見までありました。関連項目も過多になれば、問題提起タグが貼られたり、別途テンプレートが作成されるなどしております。--ジャムリン会話) 2017年2月23日 (木) 22:25 (UTC)追加:--ジャムリン会話2017年2月23日 (木) 23:24 (UTC)

「関連項目に準じた扱い」についてですが、スタイルマニュアルでも関連項目は「この節は、付録節の他の位置に置かれることもあります」とあります。このように、関連項目はスタイルマニュアルで場所・位置が定められていないことが明記されている唯一の項目であり、位置が確定されていないということなのです。この点を、もちろんご存じでしょうが、確認させていただきます。だから、関連作品が関連項目と同じ扱いならば、逆に、付録節(前述の脚注部の前後と同義です)の外の位置がありえるわけです。Wikipedia:関連項目はガイドラインではないわけですが、Wikipedia:スタイルマニュアル (レイアウト)はガイドラインであるので一定の効力はあるわけです。だから、ガイドラインとしては、位置は定められていないというのがルールなのです。ある人が言っていた言い方をするならば、編集に多様性が認められる部分ということなんでしょう。平たく言えば、自由ということです。ということは、ルールで位置を定めない限り、個別の記事毎に毎回・利用者間の合意形成が必要になるというのが厳密なルールとなるはずです。--Quark Logo会話2017年2月24日 (金) 02:08 (UTC)

コメント 先程、関連作品について主に原作関係の関連性についての修正を行いました。該当記事の関連作品については「Wikipedia:井戸端/subj/「関連作品」のレイアウトにおける位置について」で私が意見を募ったあと、一時期、リストではなく関連性をもたせた文章の形になりましたが、いつの間にやら作品間の主従や関連性も判らないただの内部リンクリストに戻されていました。ただの内部リンク表であれば、あくまで二次的な派生物のタイトル集でしかないのですから、この記事に限っていえば、もっと該当人物に近い関連項目の方が重要度が高いでしょう。本文内にあるべき関連作品節とは、例えば山岡荘八のタイトルロール小説は、何本も原作とした映像作品が制作されているなど現代創作物に対する影響は大きく、作品記事には当時の社会的影響方面のみですが、倒幕から戦前までの「陰謀家」「人を誑かす利己的な狸親父」といった今日でもきかれる否定的な面もあるステロタイプ評価からの一般的イメージの転換点ともなっているとも言われ、発表当時は「家康を良く描きすぎている」「家康贔屓がすぎる」という評価も受けたらしいですが、「実は短気だった」「律儀者」といった面などが最近の研究からはむしろ実態に近いものだったのではという話も耳にします。以上の話は研究者や歴史マニアの方々の私的な媒体で散文的にしか見かけていませんが、wikipediaの出典として耐えうる論考などとしてまとめられば、本文中にあっても差し支えない内容の項目となるでしょうが、ただの内部リンク集ではとても脚注や参考文献の前にくる必然性はないと考えます。--ジャムリン会話2017年2月24日 (金) 03:21 (UTC)

「江戸幕府の支配に関して」の節について[編集]

この節は家康に関する記述ではない紫衣事件や参勤交代などを中心に扱っており、また、出典もなく執筆者の見解と思われる独自研究も散見され、信頼性にも疑問があります。「徳川家康」の記事としてこの節は必要なのでしょうか? --Y.haruo会話2017年9月20日 (水) 13:59 (UTC)

「近現代における評価」について[編集]

「近現代における評価」節なのですが、(、『徳川家康神格化への道 : 中世天台思想の展開』 や『天下人の神格化と天皇』が信頼できる情報源であることに異論はありませんが)全体として山岡荘八の小説や池宮彰一郎の小説の小説、司馬遼太郎の小説(のあとがき)といったものでの扱われ方が中心となっています。これは歴史上の人物としての徳川家康の「評価」というより、「創作作品における描かれ方」といった内容ではないでしょうか。また、武光誠氏は日本史研究者とはいえ、古代史が専門ですし、武光誠#著書にあるような著書のタイトルや冊数からしても、信頼性に疑問があります。マイケル・アームストロング氏はコラムニストですので、その評価を載せる必要はないようにも思います(WP:RSWP:IINFO)。 節の名前を「創作作品における描かれ方」に変えることを提案します。--伊佐坂安物会話/履歴2018年2月3日 (土) 03:13 (UTC)

コメント 主旨には概ね賛成ですが、学術的な評価と、創作作品の描かれ方・一般的な受容評価に別けても良いのではないでしょうか。--ジャムリン会話2018年2月3日 (土) 05:43 (UTC)
コメント 私も趣旨には賛成ですが、ジャムリンさんの意見と同様で「近現代における評価」節は必要で分けるべきだと思います。ただし、そのうち「一般的な受容評価」として社会的な評価を別にするのはおかしいと思います。これで問題なのは、明治政府が撒いたとされる徳川幕府と「狸おやじ」との最近までの悪評から、山岡荘八の小説『徳川家康』から再評価が始まったのは事実なのです。ただし、他の小説は評価に関係はないはずです。なお、武光誠氏は古代史が専門ですが、戦国江戸時代関係の本を13冊も出していて読み物書でタイトルはともかく、歴史学者だし無碍に否定すべきとは思えません。マイケル・アームストロング氏は専門家でもないし、言われるとおりだと思います。--奈良たかし会話2018年2月3日 (土) 06:13 (UTC)
コメント お二方ともコメントありがとうございます。学術的な「近現代における評価」節が必要なのは皆様の仰るとおりだと思います。とりあえずマイケル・アームストロング氏による評価が不要であることは議論の余地がなさそうなので除去しました。--伊佐坂安物会話/履歴2018年2月9日 (金) 15:50 (UTC)

源氏復姓時期の慶長年間吉良系図改修について[編集]

利用者‐会話:126.28.200.44少し編集合戦になりかけていますが、そもそもこの事項に議論があるからと言って、両論併記の原則を無視して別の説に否定的に移動させて(別の説への転記であるし、復姓の時期に議論があることを確認してください)というのはおかしいでしょう。笠谷和比古説はまだ論文しかなく、復姓の時期や「秀吉が征夷大将軍との日本国内で関西関東で二重権力に配置しようとした」というのは、学会でも十分な議論はないと思います。「~の従来の説があるが、~の理由で議論がある」と両論併記にすべきでしょう。--奈良たかし会話2020年2月24日 (月) 12:26 (UTC)

奈良さん、まずこの点を確認させてください。

  1. 両論併記にすべき←そもそも私が記述を移動する前には「家康が源氏に改姓したのは関ヶ原の戦いの後」という趣旨の記述しかありません。これは両論併記の状態でしたか。
  2. 基本的に家康の姓氏については渡辺世祐「徳川氏の姓氏に就いて」や星野恒「三位中将藤原家康」などの昔から、論文で検討されている話です。家康の姓氏のみを扱った単著は実在しますか。出典に使われていた中公新書の『近衛前久』(1994年)はそれに該当する単著に該当しますか。
  3. さらに言えば当該論文は『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版 2000年)に所収されています。なぜ論文しか無いと判断されたのですか。
  4. 私が記述したのは「家康が源氏を称したのは関ヶ原以降である」という説についてであり、笠谷氏が源氏復姓の理由について述べているのはもともとの記述にあったものです。今回私はそれを補足したのみです。さらに「笠谷和比古」の個人的な見解であることを明記しています。
  5. 復姓の時期に関しての「十分な議論」というのはどの程度を指しますか。壬生家文書や家康の朱印状は偽書だという説が出ていますか。反論の論文があるのでしたらそれを述べてください。論文は出典にならないという意見をお持ちでしたら単著で示してください。--126.28.200.44 2020年2月24日 (月) 15:25 (UTC)(修正)--126.28.200.44 2020年2月24日 (月) 15:25 (UTC)
なるほど過去にも論文があるのですね。書かれたのは「家康が源氏を称したのは関ヶ原以降である」という説だけの記述だというのは、わかりました。私としては従来説が書かれていなかったので中公新書の『近衛前久』出典で書いて、笠谷説との対比で両論併記のつもりでいたのです。それと論文が出典にならないと書いたつもりはなく、学会で笠谷説がきちんと従来説を覆すほど認められていないのではという記述です。広い意味で「~の従来の説があるが、~の理由で議論がある」と両論併記になってることを再確認しましたのでこの編集を認めたいと思います。--奈良たかし会話2020年2月24日 (月) 15:49 (UTC)
確認しました。学会の動向をご存知でしたら記述してください。--126.28.200.44 2020年2月25日 (火) 13:31 (UTC)

:File:Tokugawa Ieyasu2.JPG → :File:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG[編集]

File:Tokugawa Ieyasu2.JPGFile:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG

--以上の署名のないコメントは、119.82.29.13会話)さんが 2020-11-27T17:42:23(UTC) に投稿したものです(郊外生活会話)による付記)。修正:--ジャムリン会話2020年11月28日 (土) 04:00 (UTC)

  • コメント なぜ画像を変更すべきか説明していただけますか(明らかな誤字などではないので、理由なく依頼されても基本的に対応できません)--郊外生活会話2020年11月27日 (金) 17:47 (UTC)
    • 国立博物館所蔵用として出た正式画像だと知っています。文書にある画像より要請した画像が正式に出た画像だと知っています。119.82.29.13 2020年11月28日 (土) 17:31 (UTC)
      • コメント ご説明ありがとうございます。ただ個人的には反対寄りです。人物記事での画像ですから、人物の顔がクローズアップされる形でトリミングされていることには意味があるだろうと思います(もちろん絵画記事であれば全体を表示していた方が良いと思いますが)。ただ、徳川家康について詳説した日本史学の専門書でその画像がでてきてクローズアップでもなく全体で表示されている(背景も含めて徳川家康を語る上で重要だったりすることが明示されている)ようであれば別でしょうが、そうでなければ積極的に画像変更を行うのはためらいます。--郊外生活会話2020年11月28日 (土) 18:47 (UTC)
      • コメント このページでほしいのは人物部分であるため余計な部分は切り取ってしまうのがベストでしょう。フルサイズが求められるのは徳川家康三方ヶ原戦役画像狩野探幽かと思われます。キャプションあたりからリンクを貼ってフルサイズの各ページに誘導してみてはいかがでしょう? --Triglav会話2020年12月2日 (水) 21:07 (UTC)
        • 同義 分かりました。3番目の回答に同意し、現在Tokugawa Ieyasu2 full。JPG フルバージョンのファイルは他の言語版文書にすでに多く使われており、現在は全体として出てくるファイルが使われているようです。 この意見に同意します。 119.82.29.13 2020年12月3日 (木) 08:47 (UTC)

終了 1か月経過したので。--Yxp on riverside会話2021年1月11日 (月) 21:57 (UTC)