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「藤原頼遠」の版間の差分

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== 経歴 ==
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藤原頼遠の名前である「頼遠」には「頼」の字があり、これは[[藤原氏]]が“約210年間行った[[摂関政治]]”において、父・[[藤原道長]]と共に“摂関政治の最盛期”を現出した「50年間[[関白]]」・[[藤原頼通]]から、頼通の名前である「頼通」(よりみち)の「頼」の字を賜ったものだとみられる。このような、非常に身分の高い人物から名前の一字をもらうことを[[偏諱]]という。偏諱によって高貴な人物からその人物の名前の一字をもらうことが出来る人物は、その名前の一字をもらう側の人物も非常に有力な人物だということを意味する。つまりことのことは、藤原頼遠が非常に有力な人物だったということを示している。
『[[尊卑分脈]]』によると、頼遠は「[[下総国|下総]]住人・五郎太大夫」とある。その後、[[陸奥国]]に下向するがその理由は不明である。なお、頼遠が住んでいた下総を含む[[房総]]を中心に起こった、[[長元]]元年([[1028年]])からの[[平忠常の乱]]に関連した可能性も考えられる。


『[[尊卑分脈]]』によると、藤原頼遠は「[[下総国|下総]]([[千葉県]])住人・五郎太大夫」とある。その後、[[朝廷]]が[[律令制]]で定めた全国68ヵ国の“国の4ランク”[[大国]]・[[上国]]・[[中国]]・[[小国]]の“最上位の国”である大国であり、更に“面積が日本最大の国”でもある[[陸奥国]]([[宮城県]]・[[福島県]]・[[岩手県]]・[[青森県]])に下向するが、その理由は不明である。
『[[続群書類従]]』坂上系図によると、[[陸奥国]]の[[権少掾]]坂上頼遠は藤原秀郷の孫藤原千清の養子になったという{{Sfn|野口実|2000|page=209}}。
なお、頼遠が住んでいた下総を含む[[房総]]を中心に起こった、[[長元]]元年([[1028年]])からの[[平忠常の乱]]に関連した可能性も考えられる。
『[[続群書類従]]』坂上系図によると、陸奥国の[[権少掾]]([[律令制]]の[[四等官]]における“国のナンバースリー”)である坂上頼遠(藤原頼遠か?)、[[従二位]]・[[公卿]]・[[藤原秀郷]]([[武蔵守]]・[[下野守]]・[[鎮守府将軍]]・[[武門の棟梁]])の孫である[[藤原千清]]の養子になったという{{Sfn|野口実|2000|page=209}}。
なお、実子であろうと養子であろうと[[家系]]([[家系図]])の上では同じ扱いをされていて、日本には養子としてその「家」(一族)の[[本家]]の[[当主]]になった人物や[[嫡男]](跡取り息子)になった人物がたくさんいる。


なお、[[奥州藤原氏]]の祖で[[前九年の役]]に参た[[藤原経清]]は子に当たる。
なお、[[東北地方]]の[[藤原氏]]である“[[奥州藤原氏]]の祖あり[[前九年の役]]で朝廷軍と[[貴族]]・[[藤原経清]](陸奥国の[[国府]]兼[[鎮守府]]・[[多賀城]]のナンバーツー)、藤原頼遠の息である。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年11月17日 (火) 01:27時点における版

 
藤原頼遠
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
氏族 奥州藤原氏
父母 父:藤原正頼、養父:藤原千清
兄弟 有遠(太郎大夫)、頼遠
平国妙姉妹
経清、連国[注釈 1]
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藤原 頼遠(ふじわら の よりとお)は、平安時代中期の武将。藤原氏の本流である藤原北家秀郷流の五代目の子孫。藤原千晴の孫。

経歴

藤原頼遠の名前である「頼遠」には「頼」の字があり、これは藤原氏が“約210年間行った摂関政治”において、父・藤原道長と共に“摂関政治の最盛期”を現出した「50年間関白」・藤原頼通から、頼通の名前である「頼通」(よりみち)の「頼」の字を賜ったものだとみられる。このような、非常に身分の高い人物から名前の一字をもらうことを偏諱という。偏諱によって高貴な人物からその人物の名前の一字をもらうことが出来る人物は、その名前の一字をもらう側の人物も非常に有力な人物だということを意味する。つまりことのことは、藤原頼遠が非常に有力な人物だったということを示している。

尊卑分脈』によると、藤原頼遠は「下総千葉県)住人・五郎太大夫」とある。その後、朝廷律令制で定めた全国68ヵ国の“国の4ランク”大国上国中国小国の“最上位の国”である大国であり、更に“面積が日本最大の国”でもある陸奥国宮城県福島県岩手県青森県)に下向するが、その理由は不明である。 なお、頼遠が住んでいた下総国を含む房総を中心に起こった、長元元年(1028年)からの平忠常の乱に関連した可能性も考えられる。 『続群書類従』坂上系図によると、陸奥国の権少掾律令制四等官における“国のナンバースリー”)である坂上頼遠(藤原頼遠か?)は、従二位公卿藤原秀郷武蔵守下野守鎮守府将軍武門の棟梁)の孫である藤原千清の養子になったという[1]。 なお、実子であろうと養子であろうと家系家系図)の上では同じ扱いをされていて、日本には養子としてその「家」(一族)の本家当主になった人物や嫡男(跡取り息子)になった人物がたくさんいる。

なお、東北地方藤原氏である“奥州藤原氏の祖”であり前九年の役で朝廷軍と戦った貴族藤原経清(陸奥国の国府鎮守府多賀城のナンバーツー)は、藤原頼遠の息子である。

脚注

注釈

  1. ^ 官位は出羽輔介(『尊卑分脈』)。

出典

  1. ^ 野口実 2000, p. 209.

参考文献

  • 野口実『千葉氏の研究』名著出版〈関東武士研究叢書〉、2000年5月。ISBN 9784626015761 

関連項目

関連作品