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新Z号作戦(しんZごうさくせん)は、太平洋戦争中に大日本帝国海軍アメリカ軍侵攻予測正面を、マリアナ諸島もしくはトラック諸島(チューク諸島)に想定し、アメリカの機動部隊の撃滅を目的として立案した作戦計画。本作戦が記載された計画書はアメリカ軍によって鹵獲されてしまい、その鹵獲はアメリカ軍にとって太平洋戦争中で最大の情報戦上の成功となった。

概要

新Z号作戦は、古賀峯一連合艦隊司令長官の指揮の下で作成されて、軍令部により承認された。正式名称「機密連合艦隊命令作第七三号」と定められた同作戦は、1944年昭和19年)3月8日に最終版が出された[1]。東から攻め込んでくる敵艦隊を迎撃する計画で、当初のZ作戦(1943年〈昭和18年〉8月時点)では、決戦場をマーシャル諸島方面としていたが、マーシャル諸島が失陥し、絶対国防圏マリアナ諸島カロリン諸島・西ニューギニア)のラインに下げられたことを受け、「全兵力を挙げて敵艦隊の来攻を撃滅する」ことでこのラインを死守する方針となった[1]。より具体的には、敵航空母艦に先制攻撃を加えて制空権を確保し、輸送船団を撃破、さらに敵上陸部隊に対しても大部分を洋上で撃破することに務め、残る場合も水際で防ぐとした[1]。当時航空参謀だった千早正隆は、当時の海軍の力では「実際には、実行などできっこない作戦だった」と戦後に述べている[1]

作戦文書の流出

3月31日に古賀長官や連合艦隊参謀長福留繁および暗号要員は、パラオからダバオへ、3機の二式飛行艇に分乗して移動することになった。これは敵機動部隊がパラオを攻撃する可能性があるという分析に基づくものであった[2]。しかし悪天候により古賀の乗った1番機が行方不明となる(古賀はのちに殉職認定される)。一方、福留の乗った2番機はダバオに向かうことを断念し、セブ島沖に不時着することとなった[2]。福留と山本祐二作戦参謀を含む9人の乗組員達は、命からがら岸まで辿り着いたが、その場でアメリカ軍の指揮下にあったフィリピン人ゲリラによって、何の抵抗もできないまま捕虜として捕らえられた[3]。日本軍守備隊(陸軍独立混成第31旅団)に対して苦況にあったゲリラ側は、米軍の意を受けて4月11日に「ゲリラへの攻撃中止を条件に海軍軍人を引き渡す」という要求を乗組員のひとり(岡村松太郎中尉)を伝令として守備隊大隊長(大西精一中佐)に伝えた[3]。大隊長はこの取引に応じることになり、4月12日に福留らは解放されることとなったが、持参していた機密文書の入ったケースを、不時着時に破棄することなく、海に投げ捨てたことから、後に地元ゲリラによって回収されることとなってしまった。福留と山本がそれぞれ持っていた作戦文書2通はネグロス島に送られ、そこから潜水艦ハッドに積まれて、ニューギニアに運ばれたのち、ブリスベーンに空輸された[4]

文書はブリスベーン郊外にある連合国軍翻訳通訳局(ATIS)においてアメリカ陸軍情報部より派遣された5人の主席翻訳要員(うち2人は日系二世)によって翻訳された[4]。英文で22ページに翻訳された文書は、アメリカの陸海軍幹部に20部が配布された[4]。これをもとにアメリカ側はマリアナ諸島攻撃作戦を作成・実行した[4]

脚注

  1. ^ a b c d 春名、2003年、pp.173 - 177
  2. ^ a b 春名、2003年、p.178
  3. ^ a b 春名、2003年、pp.180 - 181
  4. ^ a b c d 春名、2003年、pp.183 - 184

参考文献