「伊治呰麻呂」の版間の差分

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'''伊治 呰麻呂'''(これはり/これはる の あざまろ)または、[[カバネ|姓]]である公を附して'''伊治公呰麻呂'''(これはり/これはる の きみ あざまろ、[[生没年不詳]])は、[[8世紀]]後半の[[奈良時代]]に、現在の[[東北地方]]で活動した[[蝦夷]]の族長。[[外位|外]][[従五位|従五位下]]の[[官位]]を授けられ、[[上治郡]]の[[大領]]にも任じられていたが、[[宝亀]]11年([[780年]])に[[宝亀の乱]](伊治呰麻呂の乱/伊治公呰麻呂の乱)と呼ばれる反乱を引き起こした。
{{出典の明記|date=2011年6月}}


== 名前について ==
'''伊治 呰麻呂'''<ref group="注">史料には'''伊治公呰麻呂'''(これはり/これはる の きみ あざまろ)とあるため、これに準じて記される場合も多いが、[[カバネ|姓]]の「公」(きみ)を付けたものである<!--※意義ある説明です(style:その分野に疎い閲覧者を脱落させない)-->。</ref>(これはり/これはる の あざまろ、[[生没年不詳]])は、[[8世紀]]後半の[[日本]]、[[奈良時代]]の[[東北地方]]で活動した[[蝦夷]]の指導者。[[カバネ|姓]]は公。[[官位]]は[[外位|外]][[従五位|従五位下]]・[[栗原郡|上治郡]][[大領]]。
伊治呰麻呂(伊治公呰麻呂)は、現在の[[宮城県]]内陸北部、[[栗原市]]付近に勢力を持っていた蝦夷の族長である{{sfn|鈴木 (2008)|p=113}}。


8世紀中葉以降の[[律令国家]]は、本州北東部への版図拡大を基本政策として、現地において時に強硬な軍事活動を行い、時に蝦夷を懐柔しながら、[[城柵]]を置き[[柵戸]]と呼ばれる移民を移住させて支配の拡充を図りつつあった。蝦夷に対しては征討と撫慰(懐柔)の硬軟を使い分けたが、あくまで基本は撫慰であり、政府に帰順した蝦夷を使って未服の蝦夷を懐柔させることも行われた{{sfn|今泉 (2015)|p=159}}。したがって政府と蝦夷とは間断なく対立関係にあった訳でなく、武力衝突があった時でさえも全ての蝦夷と対立関係に陥った訳でない{{sfn|熊谷 (2015)|p=236}}。蝦夷の中には彼ら自身の思惑で政府の威光を恃み、また政府の政策に協力することで自らの地位上昇を目論む者もあったのである{{sfn|熊谷 (2015)|p=236}}。このように政府に帰服した蝦夷は、身分上更に狭義の「蝦夷」と、「[[俘囚]]」とに分けられる{{sfn|熊谷 (2015)|p=236}}{{sfn|今泉 (2015)|p=160}}{{sfn|鈴木 (2016a)|p=7}}。狭義の「蝦夷」とは、彼ら本来の集団を保持したまま政府に帰服したもので、君または公の姓を与えられて、多くは従来の居留地に留まった。対して俘囚とは個別に政府に帰服したもので、部姓を与えられて城柵の周辺に居住した{{sfn|熊谷 (2015)|p=236}}{{sfn|今泉 (2015)|p=160}}{{sfn|鈴木 (2016a)|p=7}}。
[[宝亀]]11年([[780年]])に[[伊治城]]<ref group="注" name="伊治城">
[[神護景雲]]3年2月([[769年]]3月)、伊治郡内(のちの[[栗原郡]]城生野村、現・宮城県[[栗原市]][[築館町|築館]]城生野[つきだてじょうの]と推定される)に築かれた城柵。</ref>で[[宝亀の乱]](伊治呰麻呂の乱)を起こした。


伊治呰麻呂が、「公」の姓を附して伊治'''公'''呰麻呂とも称されるのは、まさしく彼が政府側に帰属して活動していたことを示す{{sfn|今泉 (2015)|pp=162-163}}。さらにこの証左となるのが彼に与えられた官位で、もともと夷爵第二等を有していたが、これは狭義の「蝦夷」に対して与えられるものであり{{sfn|今泉 (2015)|p=165}}、さらに宝亀9年には、前年行われた海道・山道蝦夷の征討に功があったことを嘉して、外従五位下という地方在住者としては最高の官位を授けられるのである{{sfn|鈴木 (2008)|p=113}}{{sfn|今泉 (2015)|pp=165-166}}。
== 姓(伊治・上治)の読み方 ==
史料に読み方が記されていなかったため、後世「伊治」は長らく[[音読み]]で「いじ」と読まれてきた。また、「呰麻呂」は『[[続日本紀]]』に上治郡の[[大領]]に就任していたと記されているが、ここに見る「上治郡」が後世のどこに当たるのか(「伊治郡」のことではないか、後世の[[栗原郡]]と同定できないか、等々)は明らかでなかった。ところが1978年に解読された[[多賀城]]出土[[漆紙文書]]に、「此治郡」という表記があったため、「此」と「伊」は[[訓読み]]で「これ」の[[同音異字]]で通じ、「上治」を「此治」の[[誤記]]とする説が優勢となり<ref>[[関口明]]『蝦夷と古代国家』吉川弘文館、p155</ref>、現在では「これはり」または「これはる」との読みが有力説となっている。


また、当時「呰麻呂」という名前は和人において珍しいものでなく、忌部宿禰呰麻呂、大伴宿禰呰麻呂など、史料上散見される{{sfn|今泉 (2015)|pp=164}}。このことから[[今泉隆雄]]は、[[神護景雲]]元年([[767]]年)、[[伊治城]]造営の頃に伊治公一族が政府に帰順した折に、呰麻呂という和人の名前に改めたのではないかと推測している{{sfn|今泉 (2015)|p=165}}。また「呰」の字は「[[痣]]」に通じ、身体的な特徴に由来すると考えられ、古代においては[[計帳]]に記述する身体的特徴として注記する情報でもあった{{sfn|今泉 (2015)|p=165}}。
== 生涯 ==
伊治呰麻呂は[[陸奥国]]伊治郡(後世の[[栗原郡]]〔現在の[[宮城県]][[栗原市]]全域と[[大崎市]]の一部にあたる〕に相当する地域と推定される)の有力者とされる。


一方で、「伊治」については、長く読み方を確定できず、「イヂ」と音読されるのが通例であった{{sfn|今泉 (2015)|p=162}}。しかし昭和53年(1978年)に解読された[[多賀城]]出土[[漆紙文書]]に「此治城」とあり、「此」と「伊」の訓読の一致から此治城を伊治城と同定できるため、「コレハリ」(または「コレハル」)と読むことが明らかになっている{{sfn|今泉 (2015)|p=162}}(「此治」と「上治」を同定できるかについては[[#上治郡大領|後述]])。
当時、[[ヤマト王権#大和朝廷|大和朝廷]](ヤマト政権、中央政権)と北方の蝦夷の間には連年交戦が続いており、伊治郡はその最前線に位置していた。伊治呰麻呂は[[俘囚|夷俘]]の出身であったが、[[国府]]に仕えて上治郡(伊治郡か)の[[大領]]となり、[[出羽国]]の管轄にあった[[志波村]]の[[蝦夷征討]]に功を挙げ、[[宝亀]]9年([[778年]])にヤマト王権より外従五位下に叙せられた<ref>『続日本紀』宝亀9年6月25日条</ref>。陸奥国[[按察使]]の[[紀広純]]は初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになった。しかし、同じ[[俘囚]]出身である[[牡鹿郡]]大領の[[道嶋大盾]]は、(卑しい)[[夷俘]]の出であるとして呰麻呂を見下し侮ったため、呰麻呂は内心深く恨んでいたという<ref name="b"> 『続日本紀』宝亀11年3月22日条</ref>。


== 来歴 ==
宝亀11年([[780年]])新たな[[城柵]]として[[覚べつ城|覚&#x9c49;城]](かくべつじょう)が築かれる際、既成の城柵である[[伊治城]]<ref group="注" name="伊治城" />を紀広純が訪れたが、この機会を捉えて呰麻呂は俘囚の軍を動かして[[反乱]]を起こし、まずは大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。[[陸奥国司|陸奥介]]の[[大伴真綱]](おおとものまつな)だけが囲みを破って[[多賀城]]に逃れた。城下の住民は[[多賀城]]の中に入って城を守ろうとしたものの、真綱が陸奥掾の[[石川浄足]](いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになった。数日後、蝦夷軍は城に入って[[略奪]]行為を働き、[[焼き討ち|焼き払って]]去った。<ref name="b" />
=== 俘軍を率いる族長として ===
伊治(公)呰麻呂の名が記紀に現れるのは、宝亀9年([[778年]])6月に、前年行われた海道・山道蝦夷の征討に際しての戦功を賞し、外従五位下の位が授けられたことを記す記事においてである{{refnest|group=原典|name=『続日本紀』宝亀九年六月庚子条|『続日本紀』宝亀九年六月庚子条}}{{sfn|鈴木 (2008)|p=113}}。これは地方在住者として最高の位であり{{sfn|鈴木 (2008)|p=113}}、これによって彼は[[官人]]たりえる身分を得たと考えられる{{sfn|今泉 (2015)|p=166}}。


この時期の東北地方は、宝亀5年([[774年]])、海道蝦夷が蜂起して[[桃生城]]を奪取したことを契機として、後世「三十八年戦争」とも称される戦乱の時代に突入していくが、当初から政府が大規模な征討軍を派遣していた訳でなく、当初は現地官人と現地兵力が、敵対する蝦夷と武力衝突していた{{sfn|鈴木 (2016a)|p=3}}。[[天平]]9年([[737年]])の征討将軍[[大野東人]]以来中央からの派遣軍は絶えており{{sfn|鈴木 (2008)|p=112}}、それが復活するのは皮肉にも後に呰麻呂本人が引き起こす反乱が原因である。
呰麻呂の行動記録は、この伊治城における反乱の後、途絶する。[[多賀城]]の略奪は反乱の直接の結果であったが、その指揮官が誰かについて史料には記されていない。呰麻呂が多賀城を落とした可能性も高いが、別の将による可能性も否定できない。ただちに中央政府は[[中納言]]・[[藤原継縄]]<ref> 『続日本紀』宝亀11年3月28日条</ref>、次いで[[参議]]・[[藤原小黒麻呂]]<ref> 『続日本紀』宝亀11年9月23日条</ref>を[[征東大将軍#日本の征東大将軍|征東大使]]に任命して[[征伐|征討]]軍を出動させたが、なんら成果は得られず、戦闘は拡大した。この後の呰麻呂の動静については、史料に記載無く不明である。もし、呰麻呂が中央政府軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記したであろうことから、記録の欠落は呰麻呂がそうした最期を迎えなかったことを示唆する。なお、反乱の結果、伊治城とその周辺地域は中央政府による蝦夷経営の支配を何年かの間は逃れたものの、やがては再び制圧された。

とまれこの時期は政府によって各国に置かれた[[軍団 (古代日本)|軍団兵]]と、政府側に帰属した蝦夷・俘囚によって構成される俘軍という二本立ての現地兵力によって、敵対する蝦夷と武力衝突が起きていた時期であるが、その中で呰麻呂は俘軍を率い政府側で戦功を重ねていた{{sfn|鈴木 (2008)|p=113}}。

=== 上治郡大領 ===
宝亀9年(778年)に外従五位下の位を得た呰麻呂は、宝亀11年([[780年]])3月までに「上治郡」の[[大領]]の地位に就いていた{{refnest|group=原典|name=『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条|『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条}}{{sfn|今泉 (2015)|p=166}}。この「上治郡」について、上記多賀城出土漆紙文書から、「此治」の表記が検出されたことから、「上治」を「此治」の[[誤記]]とする見解が示され、有力な説となった<ref>[[関口明]]『蝦夷と古代国家』吉川弘文館、p155</ref>。しかしその後[[熊谷公男]]の研究により陸奥国の郡制について検討が行われ、政府によって扶植された移民系の郡である[[栗原郡]]と、服属した狭義の蝦夷を編成した[[蝦夷郡]]である上治郡とは別の郡であるとする見解が示された{{sfn|今泉 (2015)|p=166}}。栗原郡と上治郡を別であるとする説は今泉隆雄{{sfn|今泉 (2015)|p=166}}、[[鈴木拓也]]{{sfn|鈴木 (2008)|p=114}}、[[永田英明]]{{sfn|永田 (2015)|p=52}}らによって支持されている。また、呰麻呂が後に乱を引き起こす発端となった、彼が夷俘として差別を受けていた事実および、俘軍との強い結びつきは、彼が移民を編成した郡の長でなく、服属蝦夷によって構成された郡の長であったことを示唆する{{sfn|鈴木 (2008)|p=114}}{{sfn|永田 (2015)|p=52}}{{sfn|鈴木 (2016b)|pp=17-18}}。加えて、上治郡の設置が、呰麻呂が官人身分を得た宝亀9年(778年)から、郡名が記録上初見する宝亀11年(780年)までの間と考えられる一方で、栗原郡は神護景雲3年には設置されている{{sfn|今泉 (2015)|p=166}}。

=== 宝亀の乱 ===
{{main|宝亀の乱}}
宝亀11年(780年)3月、突如として呰麻呂は反乱を引き起こすこととなる。

当時、政府による東北地方経営を現地で取り仕切っていたのは[[陸奥按察使]]兼鎮守副将軍の[[紀広純]]であった{{sfn|鈴木 (2008)|p=115}}。[[按察使]]とは複数の[[令制国]]を管轄して[[国司]]を監察する律令国家の地方行政の最高官である。その紀広純が山道蝦夷の本拠であった胆沢攻略のための前進基地として[[覚べつ城|覚&#x9c49;城]](かくべつじょう)造営を計画し、工事に着手するため呰麻呂と陸奥介[[大伴真綱]]、そして[[牡鹿郡]]大領の[[道嶋大楯]]を率いて伊治城に入った折、呰麻呂は自ら内応して俘軍を率い、まず道嶋大楯を殺害、次いで紀広純も殺害するに至ったものである{{sfn|鈴木 (2008)|p=117}}。大伴真綱のみ多賀城まで護送したが、これは多賀城の明け渡しを求めてのこととみられる{{sfn|鈴木 (2016b)|p=18}}。多賀城には城下の人民が保護を求めて押し寄せたが、真綱は陸奥掾[[石川浄足]]とともに逃亡してしまった{{sfn|鈴木 (2008)|p=117}}。このため人民も散り散りとなり、数日後には反乱軍が到達して府庫の物資を略奪した上、城に火を放って焼き払ったという{{refnest|group=原典|name=『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条}}{{sfn|鈴木 (2008)|p=118}}{{sfn|今泉 (2015)|p=167}}。この時伊治城・多賀城ともに大規模な火災により焼失したことは、発掘調査によっても裏付けられている{{sfn|鈴木 (2008)|p=119}}{{sfn|鈴木 (2016b)|p=18}}。

この反乱の理由として『[[続日本紀]]』では、呰麻呂の個人的な怨恨を理由に挙げている{{refnest|group=原典|name=『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条}}{{sfn|鈴木 (2008)|p=116}}{{sfn|今泉 (2015)|pp=167-168}}。夷俘{{refnest|group=注|蝦夷と俘囚の総称}}の出身である呰麻呂は、もともと事由があって紀広純を嫌っていたが、恨みを隠して媚び仕えていたために、紀広純の方では意に介さずに大いに信頼を置いていた。これに対し道嶋大楯は常日頃より呰麻呂を夷俘として侮辱していたために、呰麻呂がこれを深く恨んでいたとするものである{{sfn|鈴木 (2008)|p=116}}{{sfn|工藤 (2011)|p=131}}{{sfn|今泉 (2015)|pp=167-168}}。道嶋大楯は呰麻呂と同じく郡の大領であるが、[[道嶋氏]]はもともと坂東からの移民系の豪族であり蝦夷ではない{{sfn|鈴木 (2008)|p=116}}{{sfn|今泉 (2015)|pp=167-168}}。また、同じく道嶋氏からは中央貴族となった近衛中将[[道嶋嶋足]]も輩出しており、陸奥国内での勢力は他を圧するものであった{{sfn|鈴木 (2008)|p=117}}{{sfn|今泉 (2015)|pp=167-168}}。道嶋大楯がつとに呰麻呂を侮辱してきたのもその威を借りたものと考えられ、政府に協力し功績を認められて地位を上昇させてきた呰麻呂にとって耐えがたい屈辱であったと考えられる{{sfn|鈴木 (2008)|pp=116-117}}{{sfn|鈴木 (2016b)|p=18}}。

一方で呰麻呂の蜂起に同調して多数の蝦夷が蜂起しており、その中には宝亀9年、呰麻呂と同時に外従五位下を賜った吉弥侯部[[伊佐西古]]も含まれる{{sfn|鈴木 (2008)|p=126}}{{sfn|今泉 (2015)|p=168}}。このことはすなわち、事件の原因が呰麻呂の個人的な理由に留まるものでなく、政府の政策に多数の蝦夷が怨恨を抱いていたことを示すものである{{sfn|鈴木 (2008)|p=119}}{{sfn|今泉 (2015)|p=168}}。また、故地に城柵を設けられて土地を奪われ、自らの一族は労役や俘軍への徴発など負担を強いられてきたこと、更には伊治城造営を主導したのも道嶋の一族である[[道嶋三山]]であったことなども、呰麻呂が恨みを募らせた理由として推測されている{{sfn|今泉 (2015)|p=168}}。

呰麻呂の反乱とそれにともなう混乱は、多賀城を文字通り灰燼に帰せしめ、これまでの政府による支配の成果を烏有に帰せしめるものであった。このため政府は「伊治公呰麻呂反」と記して{{refnest|group=原典|name=『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条}}[[八虐]]のうち[[謀反]]にあたると断じ、国家転覆の罪に当たるとした{{sfn|鈴木 (2008)|p=126}}{{sfn|今泉 (2015)|p=168}}。しかし、呰麻呂の名はその後の記紀に現れることはなく、その行方は杳として知れない{{sfn|鈴木 (2008)|p=126}}{{sfn|今泉 (2015)|p=169}}。反乱の翌年に即位した[[桓武天皇]]が賊中の首魁として名指ししたのも、上記の伊佐西古を含む、「諸絞・八十嶋・乙代」らであり{{refnest|group=原典|name=『続日本記』天応元年六月戊子条|天応元年六月戊子条}}、その中に呰麻呂の名は見えない。しかしながら呰麻呂の反乱を契機として陸奥国の動乱はより深まっていき、政府から征夷軍が繰り返し派遣される時代が到来することとなる。この桓武天皇時代の征夷には、俘軍の参加は確認できない{{sfn|鈴木 (2008)|p=126}}。呰麻呂自身がかつてそうであったような、政府に帰属した蝦夷が俘軍を率いて協力した時代は、呰麻呂の乱によって転換点を迎え、律令国家と蝦夷が全面対決する局面へと移行していくのである{{sfn|鈴木 (2008)|p=126}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 原典 ===
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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*宇治谷孟『続日本紀 (下)』[[講談社学術文庫]]、1995年
*宇治谷孟『続日本紀 (下)』[[講談社学術文庫]]、1995年
*{{Cite book
|和書
|editor=[[鈴木拓也]]
|title=蝦夷と東北戦争
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|series=戦争の日本史
|volume=3
|publisher=吉川弘文館
|date=2008-12-10
|isbn=978-4-642-06313-5
|ref={{sfnref|鈴木 (2008)}}}}
*{{Citation
|和書
|editor=[[工藤雅樹]]
|title=古代蝦夷
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|series=
|volume=
|publisher=吉川弘文館
|date=2011-11-20
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<!--2000年に初版第一冊を刊行したものを著者没後の2011年に再刊-->
*{{Citation
|和書
|editor=今泉隆雄
|title=古代国家の東北辺境支配
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|series=日本史学研究叢書
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|publisher=吉川弘文館
|date=2015-09-10
|isbn=978-4-642-06422-0
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<!--著者没後の2015年に生前発表した論説を所収して刊行-->
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|editor=熊谷公男
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|series=東北の古代史
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2019年2月5日 (火) 09:56時点における版

伊治 呰麻呂(これはり/これはる の あざまろ)または、である公を附して伊治公呰麻呂(これはり/これはる の きみ あざまろ、生没年不詳)は、8世紀後半の奈良時代に、現在の東北地方で活動した蝦夷の族長。従五位下官位を授けられ、上治郡大領にも任じられていたが、宝亀11年(780年)に宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱/伊治公呰麻呂の乱)と呼ばれる反乱を引き起こした。

名前について

伊治呰麻呂(伊治公呰麻呂)は、現在の宮城県内陸北部、栗原市付近に勢力を持っていた蝦夷の族長である[1]

8世紀中葉以降の律令国家は、本州北東部への版図拡大を基本政策として、現地において時に強硬な軍事活動を行い、時に蝦夷を懐柔しながら、城柵を置き柵戸と呼ばれる移民を移住させて支配の拡充を図りつつあった。蝦夷に対しては征討と撫慰(懐柔)の硬軟を使い分けたが、あくまで基本は撫慰であり、政府に帰順した蝦夷を使って未服の蝦夷を懐柔させることも行われた[2]。したがって政府と蝦夷とは間断なく対立関係にあった訳でなく、武力衝突があった時でさえも全ての蝦夷と対立関係に陥った訳でない[3]。蝦夷の中には彼ら自身の思惑で政府の威光を恃み、また政府の政策に協力することで自らの地位上昇を目論む者もあったのである[3]。このように政府に帰服した蝦夷は、身分上更に狭義の「蝦夷」と、「俘囚」とに分けられる[3][4][5]。狭義の「蝦夷」とは、彼ら本来の集団を保持したまま政府に帰服したもので、君または公の姓を与えられて、多くは従来の居留地に留まった。対して俘囚とは個別に政府に帰服したもので、部姓を与えられて城柵の周辺に居住した[3][4][5]

伊治呰麻呂が、「公」の姓を附して伊治呰麻呂とも称されるのは、まさしく彼が政府側に帰属して活動していたことを示す[6]。さらにこの証左となるのが彼に与えられた官位で、もともと夷爵第二等を有していたが、これは狭義の「蝦夷」に対して与えられるものであり[7]、さらに宝亀9年には、前年行われた海道・山道蝦夷の征討に功があったことを嘉して、外従五位下という地方在住者としては最高の官位を授けられるのである[1][8]

また、当時「呰麻呂」という名前は和人において珍しいものでなく、忌部宿禰呰麻呂、大伴宿禰呰麻呂など、史料上散見される[9]。このことから今泉隆雄は、神護景雲元年(767年)、伊治城造営の頃に伊治公一族が政府に帰順した折に、呰麻呂という和人の名前に改めたのではないかと推測している[7]。また「呰」の字は「」に通じ、身体的な特徴に由来すると考えられ、古代においては計帳に記述する身体的特徴として注記する情報でもあった[7]

一方で、「伊治」については、長く読み方を確定できず、「イヂ」と音読されるのが通例であった[10]。しかし昭和53年(1978年)に解読された多賀城出土漆紙文書に「此治城」とあり、「此」と「伊」の訓読の一致から此治城を伊治城と同定できるため、「コレハリ」(または「コレハル」)と読むことが明らかになっている[10](「此治」と「上治」を同定できるかについては後述)。

来歴

俘軍を率いる族長として

伊治(公)呰麻呂の名が記紀に現れるのは、宝亀9年(778年)6月に、前年行われた海道・山道蝦夷の征討に際しての戦功を賞し、外従五位下の位が授けられたことを記す記事においてである[原典 1][1]。これは地方在住者として最高の位であり[1]、これによって彼は官人たりえる身分を得たと考えられる[11]

この時期の東北地方は、宝亀5年(774年)、海道蝦夷が蜂起して桃生城を奪取したことを契機として、後世「三十八年戦争」とも称される戦乱の時代に突入していくが、当初から政府が大規模な征討軍を派遣していた訳でなく、当初は現地官人と現地兵力が、敵対する蝦夷と武力衝突していた[12]天平9年(737年)の征討将軍大野東人以来中央からの派遣軍は絶えており[13]、それが復活するのは皮肉にも後に呰麻呂本人が引き起こす反乱が原因である。

とまれこの時期は政府によって各国に置かれた軍団兵と、政府側に帰属した蝦夷・俘囚によって構成される俘軍という二本立ての現地兵力によって、敵対する蝦夷と武力衝突が起きていた時期であるが、その中で呰麻呂は俘軍を率い政府側で戦功を重ねていた[1]

上治郡大領

宝亀9年(778年)に外従五位下の位を得た呰麻呂は、宝亀11年(780年)3月までに「上治郡」の大領の地位に就いていた[原典 2][11]。この「上治郡」について、上記多賀城出土漆紙文書から、「此治」の表記が検出されたことから、「上治」を「此治」の誤記とする見解が示され、有力な説となった[14]。しかしその後熊谷公男の研究により陸奥国の郡制について検討が行われ、政府によって扶植された移民系の郡である栗原郡と、服属した狭義の蝦夷を編成した蝦夷郡である上治郡とは別の郡であるとする見解が示された[11]。栗原郡と上治郡を別であるとする説は今泉隆雄[11]鈴木拓也[15]永田英明[16]らによって支持されている。また、呰麻呂が後に乱を引き起こす発端となった、彼が夷俘として差別を受けていた事実および、俘軍との強い結びつきは、彼が移民を編成した郡の長でなく、服属蝦夷によって構成された郡の長であったことを示唆する[15][16][17]。加えて、上治郡の設置が、呰麻呂が官人身分を得た宝亀9年(778年)から、郡名が記録上初見する宝亀11年(780年)までの間と考えられる一方で、栗原郡は神護景雲3年には設置されている[11]

宝亀の乱

宝亀11年(780年)3月、突如として呰麻呂は反乱を引き起こすこととなる。

当時、政府による東北地方経営を現地で取り仕切っていたのは陸奥按察使兼鎮守副将軍の紀広純であった[18]按察使とは複数の令制国を管轄して国司を監察する律令国家の地方行政の最高官である。その紀広純が山道蝦夷の本拠であった胆沢攻略のための前進基地として覚鱉城(かくべつじょう)造営を計画し、工事に着手するため呰麻呂と陸奥介大伴真綱、そして牡鹿郡大領の道嶋大楯を率いて伊治城に入った折、呰麻呂は自ら内応して俘軍を率い、まず道嶋大楯を殺害、次いで紀広純も殺害するに至ったものである[19]。大伴真綱のみ多賀城まで護送したが、これは多賀城の明け渡しを求めてのこととみられる[20]。多賀城には城下の人民が保護を求めて押し寄せたが、真綱は陸奥掾石川浄足とともに逃亡してしまった[19]。このため人民も散り散りとなり、数日後には反乱軍が到達して府庫の物資を略奪した上、城に火を放って焼き払ったという[原典 2][21][22]。この時伊治城・多賀城ともに大規模な火災により焼失したことは、発掘調査によっても裏付けられている[23][20]

この反乱の理由として『続日本紀』では、呰麻呂の個人的な怨恨を理由に挙げている[原典 2][24][25]。夷俘[注 1]の出身である呰麻呂は、もともと事由があって紀広純を嫌っていたが、恨みを隠して媚び仕えていたために、紀広純の方では意に介さずに大いに信頼を置いていた。これに対し道嶋大楯は常日頃より呰麻呂を夷俘として侮辱していたために、呰麻呂がこれを深く恨んでいたとするものである[24][26][25]。道嶋大楯は呰麻呂と同じく郡の大領であるが、道嶋氏はもともと坂東からの移民系の豪族であり蝦夷ではない[24][25]。また、同じく道嶋氏からは中央貴族となった近衛中将道嶋嶋足も輩出しており、陸奥国内での勢力は他を圧するものであった[19][25]。道嶋大楯がつとに呰麻呂を侮辱してきたのもその威を借りたものと考えられ、政府に協力し功績を認められて地位を上昇させてきた呰麻呂にとって耐えがたい屈辱であったと考えられる[27][20]

一方で呰麻呂の蜂起に同調して多数の蝦夷が蜂起しており、その中には宝亀9年、呰麻呂と同時に外従五位下を賜った吉弥侯部伊佐西古も含まれる[28][29]。このことはすなわち、事件の原因が呰麻呂の個人的な理由に留まるものでなく、政府の政策に多数の蝦夷が怨恨を抱いていたことを示すものである[23][29]。また、故地に城柵を設けられて土地を奪われ、自らの一族は労役や俘軍への徴発など負担を強いられてきたこと、更には伊治城造営を主導したのも道嶋の一族である道嶋三山であったことなども、呰麻呂が恨みを募らせた理由として推測されている[29]

呰麻呂の反乱とそれにともなう混乱は、多賀城を文字通り灰燼に帰せしめ、これまでの政府による支配の成果を烏有に帰せしめるものであった。このため政府は「伊治公呰麻呂反」と記して[原典 2]八虐のうち謀反にあたると断じ、国家転覆の罪に当たるとした[28][29]。しかし、呰麻呂の名はその後の記紀に現れることはなく、その行方は杳として知れない[28][30]。反乱の翌年に即位した桓武天皇が賊中の首魁として名指ししたのも、上記の伊佐西古を含む、「諸絞・八十嶋・乙代」らであり[原典 3]、その中に呰麻呂の名は見えない。しかしながら呰麻呂の反乱を契機として陸奥国の動乱はより深まっていき、政府から征夷軍が繰り返し派遣される時代が到来することとなる。この桓武天皇時代の征夷には、俘軍の参加は確認できない[28]。呰麻呂自身がかつてそうであったような、政府に帰属した蝦夷が俘軍を率いて協力した時代は、呰麻呂の乱によって転換点を迎え、律令国家と蝦夷が全面対決する局面へと移行していくのである[28]

脚注

原典

  1. ^ 『続日本紀』宝亀九年六月庚子条
  2. ^ a b c d 『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条
  3. ^ 天応元年六月戊子条

注釈

  1. ^ 蝦夷と俘囚の総称

出典

  1. ^ a b c d e 鈴木 (2008), p. 113.
  2. ^ 今泉 (2015), p. 159.
  3. ^ a b c d 熊谷 (2015), p. 236.
  4. ^ a b 今泉 (2015), p. 160.
  5. ^ a b 鈴木 (2016a), p. 7.
  6. ^ 今泉 (2015), pp. 162–163.
  7. ^ a b c 今泉 (2015), p. 165.
  8. ^ 今泉 (2015), pp. 165–166.
  9. ^ 今泉 (2015), pp. 164.
  10. ^ a b 今泉 (2015), p. 162.
  11. ^ a b c d e 今泉 (2015), p. 166.
  12. ^ 鈴木 (2016a), p. 3.
  13. ^ 鈴木 (2008), p. 112.
  14. ^ 関口明『蝦夷と古代国家』吉川弘文館、p155
  15. ^ a b 鈴木 (2008), p. 114.
  16. ^ a b 永田 (2015), p. 52.
  17. ^ 鈴木 (2016b), pp. 17–18.
  18. ^ 鈴木 (2008), p. 115.
  19. ^ a b c 鈴木 (2008), p. 117.
  20. ^ a b c 鈴木 (2016b), p. 18.
  21. ^ 鈴木 (2008), p. 118.
  22. ^ 今泉 (2015), p. 167.
  23. ^ a b 鈴木 (2008), p. 119.
  24. ^ a b c 鈴木 (2008), p. 116.
  25. ^ a b c d 今泉 (2015), pp. 167–168.
  26. ^ 工藤 (2011), p. 131.
  27. ^ 鈴木 (2008), pp. 116–117.
  28. ^ a b c d e 鈴木 (2008), p. 126.
  29. ^ a b c d 今泉 (2015), p. 168.
  30. ^ 今泉 (2015), p. 169.

参考文献

  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年
  • 鈴木拓也 編『蝦夷と東北戦争』 3巻、吉川弘文館〈戦争の日本史〉、2008年12月10日。ISBN 978-4-642-06313-5 
  • 工藤雅樹 編『古代蝦夷』吉川弘文館、2011年11月20日。ISBN 978-4-642-06377-7 
  • 今泉隆雄 編『古代国家の東北辺境支配』吉川弘文館〈日本史学研究叢書〉、2015年9月10日。ISBN 978-4-642-06422-0{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 熊谷公男 編『蝦夷と城柵の時代』 3巻、吉川弘文館〈東北の古代史〉、2015年12月1日。ISBN 978-4-642-06489-7 
    • 永田英明 「一 城柵の設置と新たな蝦夷支配」
    • 熊谷公男 「七 蝦夷支配体制の強化と戦乱の時代への序曲」
  • 鈴木拓也 編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』 4巻、吉川弘文館〈東北の古代史〉、2016年6月20日。ISBN 978-4-642-06490-3 
    • 鈴木拓也「序 三十八年戦争とその後の東北」
    • 鈴木拓也「一 光仁・桓武朝の征夷」