「テオドリック (東ゴート王)」の版間の差分

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彼は[[526年]]に死に、その[[テオドリック廟|霊廟]]は現在でもラヴェンナで見ることができる。
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== ディートリヒ伝説 ==
== ディートリヒ伝説 ==
[[Image:Dietrich and Siegfried.png|thumb|火を噴き始めるディートリヒ対ジークフリート。<br />{{small|『[[ヴォルムスの薔薇園]]』の写本の挿絵(15世紀)。[[ハイデルベルク大学]]図書館所蔵Cod. Pal. germ. 359写本第49葉表}}]]
[[Image:Dietrich and Siegfried.png|thumb|火を噴き始めるディートリヒ対ジークフリート。<br />{{small|『[[ヴォルムスの薔薇園]]』の写本の挿絵(15世紀)。[[ハイデルベルク大学]]図書館所蔵Cod. Pal. germ. 359写本第49葉表}}]]
中世ドイツの叙事詩『[[ヒルデブラントの歌]]』、『[[ニーベルンゲンの歌]]』などに登場する人物「ディートリヒ・フォン・ベルン」は、いくぶん伝説化されているものの、テオドリックがモデルである。(なお、この「ベルン(Bern)」とは、現在のスイスの都市[[ベルン]]ではなく、イタリアの都市[[ヴェローナ]]のことである)
中世ドイツの叙事詩『[[ヒルデブラントの歌]]』、『[[ニーベルンゲンの歌]]』などに登場する人物「ディートリヒ・フォン・ベルン」は、いくぶん伝説化されているものの、テオドリックがモデルである。(なお、この「ベルン(Bern)」とは、現在のスイスの都市[[ベルン]]ではなく、イタリアの都市[[ヴェローナ]]のことである)


ブリタニカ百科事典(1911年)によれば、「ディートリヒの伝説は様々な点でテオドリックの生涯と異なっている。これは、ディートリヒの伝説が、元来はテオドリックとは別のものであったことを示唆している。」と記述している。ディートリヒ伝説の時代考証については誤りが多く、たとえば[[エルマナリク]](376年没)や[[アッティラ]](453年没)が、テオドリック(526年没)と同時代の人間だと言うことになっている。
ブリタニカ百科事典(1911年)によれば、「ディートリヒの伝説は様々な点でテオドリックの生涯と異なっている。これは、ディートリヒの伝説が、元来はテオドリックとは別のものであったことを示唆している。」と記述している。ディートリヒ伝説の時代考証については誤りが多く、たとえば[[エルマナリク]](376年没)や[[アッティラ]](453年没)が、テオドリック(526年没)と同時代の人間だと言うことになっている。


ディートリヒの物語はいくつか現存しており、これらのものは口承で伝えられてきたと考えられる。ディートリヒが登場する最古の物語は『ヒルデブラントの歌』と『ニーベルンゲンの歌』であるが、いずれにおいてもディートリヒは主要な人物としては描かれていない。
ディートリヒの物語はいくつか現存しており、これらのものは口承で伝えられてきたと考えられる。ディートリヒが登場する最古の物語は『ヒルデブラントの歌』と『ニーベルンゲンの歌』であるが、いずれにおいてもディートリヒは主要な人物としては描かれていない。


ディートリヒの伝説で最古のものである『[[ヒルデブラントの歌]]』は820年ころに記録されている。作中、ハドゥブラントは、父親の[[ヒルデブラント]]が、[[オドアケル]]の手から逃れるため、ディートリヒとともに東方に向かったことを語っている。このように、ディートリヒ自体はヒルデブラントの物語では背景的に名前が出てくる程度ではあるが、この時代の聞き手がディートリヒについて充分な知識を持っていたことが分かる。そして、作中ではディートリヒ(テオドリック)の宿敵が史実通りオドアケルになっているが、のちの伝説ではオドアケルの演じる役柄がエルマナリクにとって変えられている。なお、史実ではテオドリックがオドアケルに追放されたなどという事実はない。
ディートリヒの伝説で最古のものである『[[ヒルデブラントの歌]]』は820年ころに記録されている。作中、ハドゥブラントは、父親の[[ヒルデブラント]]が、[[オドアケル]]の手から逃れるため、ディートリヒとともに東方に向かったことを語っている。このように、ディートリヒ自体はヒルデブラントの物語では背景的に名前が出てくる程度ではあるが、この時代の聞き手がディートリヒについて充分な知識を持っていたことが分かる。そして、作中ではディートリヒ(テオドリック)の宿敵が史実通りオドアケルになっているが、のちの伝説ではオドアケルの演じる役柄がエルマナリクにとって変えられている。なお、史実ではテオドリックがオドアケルに追放されたなどという事実はない。


『[[ニーベルンゲンの歌]]』において、ディートリヒは[[フン族]]の王・エッツエル(アッティラ)の宮廷で亡命生活をおくるという設定になっている。作中、ディートリヒは[[ブルグント族]]との戦争においてエッツエル側として参加するが、ヒルデブラントを除く家臣をことごとく戦死させてしまっている。最終的には、ブルグントの戦士・ハゲネとギュンターを一騎打ちで打ち破り、捕虜にすることで戦争を終わらせる活躍をした。
『[[ニーベルンゲンの歌]]』において、ディートリヒは[[フン族]]の王・エッツエル(アッティラ)の宮廷で亡命生活をおくるという設定になっている。作中、ディートリヒは[[ブルグント族]]との戦争においてエッツエル側として参加するが、ヒルデブラントを除く家臣をことごとく戦死させてしまっている。最終的には、ブルグントの戦士・ハゲネとギュンターを一騎打ちで打ち破り、捕虜にすることで戦争を終わらせる活躍をした。


[[スカンディナビア]]のサガはディートリヒの帰還を扱っている。最も有名なものは、13世紀にアイスランド人かあるいはノルウェー人の作者が[[ノルウェー語]]で編集した『[[シズレクのサガ]]』である。ここでは本来はディートリヒと無関係であったニーベルングや[[ヴェルンド]]の伝説を取り入れている。その他、レーク石碑に彫られた[[古エッダ]]や[[シズレクのサガ]]などにも登場している。
[[スカンディナビア]]のサガはディートリヒの帰還を扱っている。最も有名なものは、13世紀にアイスランド人かあるいはノルウェー人の作者が[[ノルウェー語]]で編集した『[[シズレクのサガ]]』である。ここでは本来はディートリヒと無関係であったニーベルングや[[ヴェルンド]]の伝説を取り入れている。その他、レーク石碑に彫られた[[古エッダ]]や[[シズレクのサガ]]などにも登場している。


[[Image:Dietrich_fängt_den_Zwerg_Alfrich_by_Johannes_Gehrts.jpg|thumb|right|ドワーフを生け捕りにするディートリヒ Johannes Gehrts画(1883年)]]
[[Image:Dietrich_fängt_den_Zwerg_Alfrich_by_Johannes_Gehrts.jpg|thumb|right|ドワーフを生け捕りにするディートリヒ Johannes Gehrts画(1883年)]]


後世、ハインツ・リッター=シャウムブルクは『シズレクのサガ』の内容のうち、地形上の記述についてそれが正確であるかを検証した。そのうえで、「ディートリヒ」の伝説の起源はゴート族の王・テオドリックではありえないという結論を出した。そのうえで、リッター=シャウムブルクは叙事詩の英雄は同時代に存在した同名のゴート族であり、それがスウェーデンで「Didrik」とされたのであると主張している。さらに、リッター=シャウムブルクは「ベルン」についてもドイツの「[[ボン]]」を意味しており、ディートリヒはボンを統治していたフランク族の小規模な王族だったと主張している<ref>Heinz Ritter-Schaumburg: Dietrich von Bern. König zu Bonn. Herbig: Munich / Berlin 1982</ref>。もっとも、この説は多くの学者から反対されている<ref>See, for example, the critical review by Henry Kratz, in ''The German Quarterly'' 56/4 (November 1983), p. 636-638.</ref>,。
後世、ハインツ・リッター=シャウムブルクは『シズレクのサガ』の内容のうち、地形上の記述についてそれが正確であるかを検証した。そのうえで、「ディートリヒ」の伝説の起源はゴート族の王・テオドリックではありえないという結論を出した。そのうえで、リッター=シャウムブルクは叙事詩の英雄は同時代に存在した同名のゴート族であり、それがスウェーデンで「Didrik」とされたのであると主張している。さらに、リッター=シャウムブルクは「ベルン」についてもドイツの「[[ボン]]」を意味しており、ディートリヒはボンを統治していたフランク族の小規模な王族だったと主張している<ref>Heinz Ritter-Schaumburg: Dietrich von Bern. König zu Bonn. Herbig: Munich / Berlin 1982</ref>。もっとも、この説は多くの学者から反対されている<ref>See, for example, the critical review by Henry Kratz, in ''The German Quarterly'' 56/4 (November 1983), p. 636-638.</ref>,。


13世紀に書かれた『ベルンの書』(Buch von Bern)によれば、ディートリヒはフン族の力を借りて王位を取り戻そうとしたことが書かれている。
13世紀に書かれた『ベルンの書』(Buch von Bern)によれば、ディートリヒはフン族の力を借りて王位を取り戻そうとしたことが書かれている。


== 子女 ==
== 子女 ==

2016年4月1日 (金) 06:54時点における版

テオドリックの銅像。
ペーター・フィッシャー (父)英語版作(1513年)。インスブルック宮廷教会英語版所蔵

テオドリックTheodoric, 454年 - 526年8月30日、在位 : 493年 - 526年)またはテオデリック(Theoderic, Theoderik)は、東ゴート王国の創始者。ラテン語ではテオドリクス (Theodoricus)。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。イタリア語ではテオドーリコ (Teodorico)。

生涯

東ゴート族の王子ティウディミルの子として454年に生まれ、東ローマ帝国人質として、少年期をコンスタンティノポリスの宮廷で過ごした。470年、ティウディミルが王位に就くと帰郷したが、マケドニアテッサロニキを占領した後、父王が死んだので、王位を継承した。

テオドリック大王のブロンズ像。(正面)
イタリアラヴェンナに今も残るテオドリックの霊廟

東ゴート族の主導権を巡って、ローマ軍の長官テオドリック・ストラボと争い、皇帝ゼノンとの政治的駆け引きを繰り返したが、テオドリック・ストラボが急死したため、東ローマ帝国に圧力をかけ、483年には東ローマ帝国の軍事長官に任命された。

彼の東ゴート王国創設は、西ローマ帝国パトリキウスに任命された親衛隊長オドアケルが、東ローマに内政干渉を行ったことに端を発する。皇帝ゼノンは、テオドリックにイタリア遠征と、皇帝代理としてこれを支配することを確約した(これは、東ローマ帝国内に居座る東ゴート人を厄介払いしてしまおうと言うゼノンの思惑があった)ので、488年、彼はモエシアを経ち、489年、リュブリャナ平原のイゾンツォ川でオドアケルの軍勢を破ると(イゾンツォの戦い)、ヴェローナミラノを占領、西ゴートの援軍を得てラヴェンナを包囲した。493年、彼は、和平交渉によりラヴェンナ入城を果たし、イタリア王を名乗った。

テオドリックは、隣国との調停を計るため、フランク王国の王クローヴィスの妹アウドフレダを妻に迎え、娘を西ゴート王国アラリック2世に、妹をヴァンダル王トラスムンドに嫁がせた。

彼を、そして東ゴート王国を最も悩ませたのは、宗教問題と後継者問題であった。テオドリックと、多くのゴート族はアリウス派であったが、カトリック教徒であった皇帝ユスティヌス1世ローマ法大全を編纂させたユスティニアヌス大帝の、叔父にして先代皇帝)はこれを迫害し、東ローマとの関係は次第に悪化した。また、彼自身は当時としては長寿であったが、テオドリックには後継者となる男子に恵まれず、東ゴート王国にとってはこれが最も致命的となった。

彼は526年に死に、その霊廟は現在でもラヴェンナで見ることができる。

ディートリヒ伝説

火を噴き始めるディートリヒ対ジークフリート。
ヴォルムスの薔薇園』の写本の挿絵(15世紀)。ハイデルベルク大学図書館所蔵Cod. Pal. germ. 359写本第49葉表

中世ドイツの叙事詩『ヒルデブラントの歌』、『ニーベルンゲンの歌』などに登場する人物「ディートリヒ・フォン・ベルン」は、いくぶん伝説化されているものの、テオドリックがモデルである。(なお、この「ベルン(Bern)」とは、現在のスイスの都市ベルンではなく、イタリアの都市ヴェローナのことである)

ブリタニカ百科事典(1911年)によれば、「ディートリヒの伝説は様々な点でテオドリックの生涯と異なっている。これは、ディートリヒの伝説が、元来はテオドリックとは別のものであったことを示唆している。」と記述している。ディートリヒ伝説の時代考証については誤りが多く、たとえばエルマナリク(376年没)やアッティラ(453年没)が、テオドリック(526年没)と同時代の人間だと言うことになっている。

ディートリヒの物語はいくつか現存しており、これらのものは口承で伝えられてきたと考えられる。ディートリヒが登場する最古の物語は『ヒルデブラントの歌』と『ニーベルンゲンの歌』であるが、いずれにおいてもディートリヒは主要な人物としては描かれていない。

ディートリヒの伝説で最古のものである『ヒルデブラントの歌』は820年ころに記録されている。作中、ハドゥブラントは、父親のヒルデブラントが、オドアケルの手から逃れるため、ディートリヒとともに東方に向かったことを語っている。このように、ディートリヒ自体はヒルデブラントの物語では背景的に名前が出てくる程度ではあるが、この時代の聞き手がディートリヒについて充分な知識を持っていたことが分かる。そして、作中ではディートリヒ(テオドリック)の宿敵が史実通りオドアケルになっているが、のちの伝説ではオドアケルの演じる役柄がエルマナリクにとって変えられている。なお、史実ではテオドリックがオドアケルに追放されたなどという事実はない。

ニーベルンゲンの歌』において、ディートリヒはフン族の王・エッツエル(アッティラ)の宮廷で亡命生活をおくるという設定になっている。作中、ディートリヒはブルグント族との戦争においてエッツエル側として参加するが、ヒルデブラントを除く家臣をことごとく戦死させてしまっている。最終的には、ブルグントの戦士・ハゲネとギュンターを一騎打ちで打ち破り、捕虜にすることで戦争を終わらせる活躍をした。

スカンディナビアのサガはディートリヒの帰還を扱っている。最も有名なものは、13世紀にアイスランド人かあるいはノルウェー人の作者がノルウェー語で編集した『シズレクのサガ』である。ここでは本来はディートリヒと無関係であったニーベルングやヴェルンドの伝説を取り入れている。その他、レーク石碑に彫られた古エッダシズレクのサガなどにも登場している。

ドワーフを生け捕りにするディートリヒ Johannes Gehrts画(1883年)

後世、ハインツ・リッター=シャウムブルクは『シズレクのサガ』の内容のうち、地形上の記述についてそれが正確であるかを検証した。そのうえで、「ディートリヒ」の伝説の起源はゴート族の王・テオドリックではありえないという結論を出した。そのうえで、リッター=シャウムブルクは叙事詩の英雄は同時代に存在した同名のゴート族であり、それがスウェーデンで「Didrik」とされたのであると主張している。さらに、リッター=シャウムブルクは「ベルン」についてもドイツの「ボン」を意味しており、ディートリヒはボンを統治していたフランク族の小規模な王族だったと主張している[1]。もっとも、この説は多くの学者から反対されている[2],。

13世紀に書かれた『ベルンの書』(Buch von Bern)によれば、ディートリヒはフン族の力を借りて王位を取り戻そうとしたことが書かれている。

子女

氏名不詳の妾とのあいだに二女がいる。

  • ティウディゴート - 西ゴート王アラリック2世と結婚
  • オストロゴート - ブルグント王ジギスムントと結婚

493年にフランク王国の王クローヴィスの妹アウドフレダと結婚し、一女をもうけた。

脚注

  1. ^ Heinz Ritter-Schaumburg: Dietrich von Bern. König zu Bonn. Herbig: Munich / Berlin 1982
  2. ^ See, for example, the critical review by Henry Kratz, in The German Quarterly 56/4 (November 1983), p. 636-638.

関連

先代
東ゴート王
493年 - 526年
次代
アタラリック
先代
オドアケル
イタリア王
493年 - 526年
次代
アタラリック